いじめと戦おう!〜対策と克服法〜
25.小1〜中3男子・・・クラスでのいじめ(現在、26歳)

 ご本人からのメール

〔いつごろから?〕
 小学校1年〜中学卒業まで

〔いじめグループは何人?〕
 170人以上

〔いじめグループはどんな人たち?〕
 良グループ、PTA会長の息子、警官の息子、学年女子一同、教員

〔まわりの人たちのようす〕
 見てみぬふり、楽しんでる。いじめは正義だと思ってる。

〔いじめのくわしい内容〕
 どうもです。私は今26歳で東京で一人暮らしをしております。


【小学校低学年】
 子どもの頃は、神奈川県の小さな海沿いの町に住んでいました。小学校から中学校までいじめられていました。いじめが始まったのは小学校1年生でした。

 色々な理由が重なって起きました。まず1つは、呼吸器の持病です。その為に痰が喉に絡んだりするので、「汚い、ばい菌」と言うレッテルで言われるようになりました。次に当時、私は親子で祖父母と近所の高級住宅地に住んでおり、その為の嫉みも原因の一つです。
 そして、私は厳しく家で育ったためか、正義感が非常に強く、それが災いしました。正義感により、何かあったら見逃せず、「悪いことはだめだよ。」と注意していました。それが生意気ということでした。


【小学校高学年】
 いじめの内容は、無視、ばい菌扱い、上級生(同級生の兄)からの暴力などでした。高学年になるにつれてエスカレートし、男子からは暴力、女子からは触れると「ばい菌が移る」ということで、他の誰かになすりつけられるなどの日常になりました。遠足や社会見学などでのグループ決めでは、ハブられました。

 6年生になると、地域のコンビニで、学年の男子が自分と他1名を除いた全員が万引きをしていました。それに参加しなかったことからも、生意気ということで、いじめを受けました。

 高学年になると、通っていた剣道教室でもいじめが起こりました。同級生の知り合いや、剣道の試合で不良グループの中心のメンバーに勝ったことが生意気ととられ、暴力的イジメが始まりました。当時の担任に訴えても、「君は協調性が無いからね」ということで片付けられました。



【中学校-障害者のクラスメイトを助けるが…】
 卒業後は、公立中学に進みました。そこでは小学校からのメンバーに加え、他の市内の小学校からも生徒が集まり、剣道の道場のメンツもいました。

 そのため一気にいじめはエスカレートしました。年齢的にも反抗期や子どもが粋がって不良に走るなどの年代になるために、小学校の頃が可愛く思えるほど、ひどくなっていきました。

 当時、同じクラスにK君とM君と言う知的ハンディキャップのある男の子が2人居ました。K君はオウムのように人の真似を返すような感じで女子から可愛がられており、M君は男子から可愛がられておりました。

 そのM君を可愛がっていた男子不良グループが、女子に人気のあるK君が生意気だということで、まずいじめを始めました。全裸で歩かせたり、殴ったり水を掛けたりしていました。周囲の男子は、障害者だからいじめたっていい、何も言わないからしょうがない、などという思いで見ていました。教員でさえ、特に何もしませんでした。

 K君の身体は痣だらけになりました。知的ハンディキャップのある子どもでも感情はちゃんとあるので、イライラしたりわめいたりしていました。K君のお母さんは、放課後迎えに来るたびに心配していました。

 私の従弟で同じく知的ハンディキャップがある子が居ます。そのため他人ごとに思えず、K君のお母さんにいじめのことを話しました。その後、お母さんは学校に抗議をし、主犯格は注意を受けました。

 すると、「誰がチクッた!」となり、「犯人」探しが始まりました。当然、K君の親御さんは、私の名前は伏せてくれていました。しかし、事もあろうかM君の親が、主犯格の親にばらしました。M君はいじめグループと仲がいいので、彼らに媚を売ったのではないかと私は考えております。

 そして、私がK君の親に話したことがいじめグループ全員に知れ渡りました。翌日、登校をするとそのグループ(人数はもう覚えていませんが10人以上)に、使ってない教室で集団リンチを受けました。時間にして30分だったのか1時間だったのか、とにかく地獄のようでした。

 リンチ後の私は、服は破け顔は晴れ上がり、歯は欠けて、鼻は折れて曲がり、身体中にあざを作り・・・・いっそ気絶やその場で死んでいたらどれだけ楽だったかと思います。惨劇の後の私がおかしいのは一目瞭然でした。

 チクッたから、ボコボコにされたという話が学年中に広がりました。「ちくったのが悪い、やられてとうぜん」という事になりました。私は悪人としてやられたため、いじめではなく、正義の鉄槌を受けたことになりました。今でもそうですが、子どもに限らずこの国では、告発をすると正しいことをしているのに「仲間を売った悪人」になります。女子からも「やられてよわっちぃやつ」ということで、嫌われたり面白がられたりしました。

 その一件から私は毎日いじめられ、登下校の際は道端の植え込みからエアーガンで撃たれたり、体育の授業で男女別に着替える際にボコボコにされたり、難癖をつけられてボコボコにされたり、髪の毛にガムをつけられたり、机に落書きをされたり物を隠されたり、身体に火をつけられたりしました。

 主犯格はTを中心として、PTA会長の息子のYなどが名を連ねていました。ボール代わりに休み時間には顔面を蹴られまくったりもしました。

 私の親は学校に抗議をし、相手の親を家に呼んで謝らせました。しかし、いじめの負の公式で、エスカレートするだけでした。教員はいじめグループの顔色を伺うだけで、生徒のほうが強いという状況でした。また、校長は自分の経歴に傷をつけたくないのか、全てをもみ消しました。

 教員は校長に右へ倣えでした。私の親が、見かねて県の教育委員会に訴えました。すると、あろうことか、教員に「余計なことをしてくれたな。高校にいけなくしてやる」と言われました。地域の平和を守る交番の警官には、自分の息子がいじめグループ(立場的にはスネ夫)に入っているためか、彼らは正義だとさえ言われました。

 仲が良かった友達もいなくなりました。お昼は弁当だったので、班にして友達同士食べる決まりでしたが、私はいつも教室のはじっこで一人弁当を食べていました。昼休みや放課後は、図書室にこもりました。

 そんな中でも、私はやっぱりイジメが許せず、他の子がいじめられてると助けに行きました。そして、さらにいじめはひどくなりました。K君のほかにM君という子がおり、彼は生まれつき耳が殆ど聞こえない子でした。補聴器をつけていて、話すことも上手く出来ず、それが理由で苛められておりました。彼を助けてからは今度は学年全体、下級生からも暴行を受けるようになりました。


 人はやり返せば良いと言います。しかし、やり返すと1対1では勝てるのですが、集団で復讐にやってきます。私は映画や漫画の主役じゃないので勝てるわけがありません。



【中学校-修学旅行】
 今でも忘れることが出来ないのは、修学旅行の時のことです。京都と奈良で1泊ずつの旅行でした。旅館では、いじめグループの主犯連中と同じ部屋でした。

 そもそも、現状を知っている教員が変えるべきです。私は、部屋割りの変更を要請しました。しかし、部屋はそのままでした。これは恐らく教育委員会への訴えを根に持った、嫌がらせだと思います。

 それでも、さすがに修学旅行だから大人しくしてるだろうと、淡い期待も抱いておりました。夜、あっけなく打ち砕かれました。宿の仲居さんが部屋の冷蔵庫を開けたところ、アルコールが入っていることに気付きました。当然、中学生が泊まるのでアルコールは撤去されてるので、同室の連中が持ち込んだものです。

 私のせいにされかけたので、「自分ではない、彼らが持ち込んだ」と言いました。それが彼らの逆鱗に触れ、仲居さんが居なくなった後、彼らと隣室の連中総出でリンチに会いました。着ていた私服は破け血だらけになりました。

 リンチし終えた連中は、さっさと部屋を出て、夕食に行きました。夕食後には、清水焼の湯飲みを全員で作るという行事がありました。

 私は一人部屋に横たわり、悔しくて涙が出てきました。「なぜ自分だけこんな目にあわなきゃならないのか、悪くないのに」と悔しくて溜まらず、窓から飛び降りることも考えました。しかし、悪くないのになぜ自分が死ななきゃならないのかと思い、自殺は思いとどまりました。

 そして、私は自分の荷物をまとめ、もう居たくないと、お金はないですが家に帰ろうとしました。そこを教員に捕まえられ事の次第を話しました。しかし、「考え直せ」とボロボロなのに押さえつけられました。彼らにはお咎めなしで・・・。

 その後も卒業まで、リンチを受けるような日々が続きました。私以外にも被害者はおり、目をつけられた女子は2名ほどレイプにもあっておりました。
しかしそれももみ消し・・・・。


 1名だけ熱い先生がおりましたが、その主犯格を殴ったことで飛ばされました。



【学生時代を振り返って】
 そんな9年間を送りました。その町にはもう二度と居たいと思いません。楽しい思い出はあったのかもしれませんが、覚えておりません。それほどまでに、いじめは傷跡を残しました。当時を知る人間には一切関わりたくないし、法律なんか関係なく、今でも会えば殺してやろうとさえ思います。

 いつまでも根に持ってるなとか人は言いますが、そんなのキレイ事です。いじめは心を殺す殺人だと考えております。苦しくても死ななかったのは、勇気がなかったことと、こんな奴らのせいで死ぬのは許せなかったからです。

 悔しい、いつか見返してやるという復讐心です。復讐心は良くないとは一般的に言いますが、死なないために持つのは悪いことではないと思います。そのために身体を鍛えたり、武道をやったりしました。


 中学を卒業して10年以上経ちますが、未だに乗り越えてはおらず苦しんでます。

 今でも悔しかったり怨みはありますが、唯一よかったと思えることは「人の痛みが解る人間になれたこと」です。だから困っている人や、いじめなどで苦しんでいる人が居れば、自分の事のように感じ、どうにかしようと思う人になりました。

 未だに人間不信で苦しみは続いています。しかし、いじめられてる人は負けないで、どうか死ぬことだけは思いとどまって欲しいです。

 苦しんでいるのはあなただけじゃないんです。

 ここにたくさんの仲間が居ます。

 あとちょっと、社会人になるまで頑張ってみてください。世の中には1人だけかもしれないけど、自分を受け入れてくれる人が居ます。それが友達であったり恋人であるかは人それぞれだけど、必ず味方は居ますから。


 そして、いじめをしてる人、君達は最低のクズです。正直死んでいいです。それくらい卑怯なことをしているんです。もし君がここに書かれているようなことをされたらどう思いますか?たえられますか?考えてみてください。そして、いじめをやめてください、相手に謝ってください。そうしないと、君は軽い気持ちでいじめている、もしくはいじめてる自覚も無いかもしれないけど、相手は一生傷つき、怨んでしまいます。

 誰にでも間違いはあることです。でも、恥じてやめてください。





たくさん質問させていただきました。お答えいただき、ありがとうございました。

 Q1.剣道教室は、いつから通われたんでしょうか。

 幼稚園の年長からです。


Q2.これほどの地獄を生き抜けたのは、剣道によって精神的に鍛えられたことが大きいと思いますが、どうでしょうか。

 単に死ぬ勇気が無かったことと、いつか復讐を、という思いです。


Q3.いじめられた後、みじめな姿になって、それでも教室に戻らなければ行けない時、どう自分を励まして行かれたんでしょうか。

 耐え忍ぶだけでした。自分は悪くないと、自己暗示をかけました。


Q4.ばい菌扱いされた時、どう前向きに考えて耐え抜いたんでしょうか。

 自分は汚いんだと悩みました。今でもやっぱり自信はもてません。でも、病気は病気だから仕方ないと、そういうものだと考えました。


Q5.遠足などのグループ決めでハブられるというのは、経験してみないと分からない辛さですよね。一人ぼっちで佇んで…、周りはワイワイとどんどん決まっていく。その時、どう前向きに考えて耐え抜かれたんでしょうか。

 一人景色を見たりして、自分をなごませました。あと、空想の世界に浸ったりしました。


Q6.剣道教室では、友人はいましたか。先生は、平等に扱ってくれましたか。

 友人はいませんでした。先生は平等かどうか・・・・・・先生の息子も加わってたので平等ではなかったと思います。


Q7.最終的には、何段くらいまでいかれたんでしょうか。

 2段です。元々親類が道場をやっていたので、そちらの方を後で自分でやるようになりました。


Q8.剣道教室でのいじめが始まった後も、不良グループとの試合では手を抜かず対戦したんでしょうか。

 もちろんです。そして、そのあとボコボコにされる毎日でした。


Q9.中学では、どうしようもないくらい地獄でしたね。なぜ、そこまでされても、学校に行ったんでしょうか。そこまでの勇気が、なぜ湧いてきたのか…、教えてください。

 自分のことじゃなく他人事のように考えるようにしていました。あと、本当にいつか復讐してやるという思いで通いました。また、楽器が好きで、吹奏楽部の活動のために通いました。


Q10.スタンガンなど、護身の道具を持ち歩こうとは思いませんでしたか。

 あります。私は卒業して親類の道場で小太刀の使い手になりました。さらに、ナイフと徒手空拳のCQBのトレーニングを積んで、接近戦等術を身に着けたので、鍛錬の必要上ナイフなどは扱っております。


Q11.ボロボロの姿で家に帰ったことは、一度や二度じゃありませんよね。ご両親は、何と言っていましたか。それでも「学校に行け」と言っていましたか。

 最初は隠してましたが、敵が強大すぎたので親に相談しました。最初は転校や不登校を願い出ましたが許可されず、這ってでも行けといわれました。


Q12.いじめがエスカレートしたなかでも、M君という耳が不自由な方を助けられたそうですが、その時のことをもう少し詳しく教えてください。

 本文にM君は2人出てきていますが、耳が不自由なほうのM君のことですね。彼は、自分のせいでもなく生まれ持った障害を理由にいじめられていました。教員も「ツンボ」 などと言っていました。それが許せなく、自分がやられてて周りが助けてくれない苦しさは痛いほど身にしみていたので、自分しか彼と仲良くなれないと思っておりました。また、同じ境遇の仲間というか友達というかそんなのがほしかったのだと思います。


Q13.その主犯格がその後どうなったか、もし知っていたら教えてください。

 大学にの頃に一度だけ同窓会があり、考えた末に参加しました。主犯格はその後やはり外道なことをいろいろやり少年院に入っていたそうです。それを自慢げに同窓会で語っており、ヘドがでそうでした。ほかのやつらも自分は悪くないとのような様子でおり、中には親になってるものもわずかながらいました。正直そんなやつらが子供を持つのはどうかと思いました。なんとも、あきれた同窓会でした。

 最初は、そこで何かもし起こったら、身につけた武道や格闘術で殺してやろうなど、今思うと浅はかなことも考えました。ただ、かりに復讐しても、そんな事で逮捕されて人生を無駄にするのは馬鹿らしいと思い、実行には移しませんでした。


Q14.復讐心から、武道をやられたということですが、剣道の他には何かされていましたか。

 前述しましたが、中学卒業後は大叔父のところで小太刀の鍛錬をしました。別の叔父が、当時はグリーンカードを所持し米軍の特殊部隊に居たので、自分のできる範囲での格闘術、人を殺すすべを教えてもらいました。大学では、弓道をやっておりました。


Q15.あなたの、正義感はどこから来るのでしょう。なぜ、そこまで助けようとするのですか。

 人の道を外れる悪いことはしてはいけない、弱い人に優しく守るのが男だと母親と祖父母に育てられたからでしょうか? 単純に正義感が強かっただけだと思います。


Q16.高校以降、現在に至るまでの生活について、教えてください。充実していましたか。

 高校卒業後は普通に大学に進学し、学費を稼ぎながら5年かけて3流大学を卒業しました。その後、在学中から働いていた居酒屋チェーン店で店長として勤務しましたが、身体を壊し離職しました。昨年の10月末日までは小さな会社の経理として2年ほど働いておりました。

 私は、曲がったことや不正、納得のいかないことが許せない性分です。1年以上の上司の無断欠勤をカバーするため、休暇も休憩も無く働きづめで身体を壊し、さらに病院に行けないままでした。とうとう 限界が来て、許可を得て休職通院したのですが、知らぬ間に解雇されていました。現在は、情けないですが無職です。

 協調性や処世術があればきっとやっていけるのでしょう。でも、過去のせいにはしたくはありませんが、やはり性格や人格形成に多大な影響を及ぼしていると実感しております。

 また、プライベートではやはり人付き合いが苦手で、自分の友達や恋人に対して過剰というか熱くなりすぎてしまう節があり、周りから見て好き嫌い分かれる人間になっております。

 まぁ、大学時代の部活で親友と呼べる人間がわずかですが、おります。恋人に関しては、嫌われるのが怖くて怒らず我慢する性格からか、浮気や借金を残されて蒸発されたという情けない状態ですね。

 充実は・・・・一人で旅行に出たり、旅先での人との一期一会を大事にするようになり、それが楽しいと感じることですね。


Q17.高校以降、「生きててよかった」と思えた出来事があったら、教えてください。

 友達に必要とされた時や、普段はあまり話さなくても何かで気にかけてもらえた時に「自分を認めてくれる人が居るんだ。」と感じて、うれしかったです。

 おそらく、いじめられ、さげすまされてきた人は、普通の幸せも感じたことがなく、マイナス思考のループだと思います。だから、そういう些細なことでも、普通の人以上にうれしく感じると思います。



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