いじめと戦おう!〜対策と克服法〜
73.中2男子・・・学校でのいじめ(現在、40歳)

 ご本人からのメール

〔いつごろ?〕
 中学2年の時

〔いじめグループは何人?〕
 周囲から見て仲のいい友達に見えたであろう、4人組の私以外の3人。

〔いじめのくわしい内容〕
 ある日突然、同じグループ内から、「お前は貧乏」と言われるようになり、どんな言動も貧乏に結びつけてバカにされるようになりました。

 この貧乏ネタが始まってから、グループ内での私の人権や立場はなくなり、放課後にグループからだれか一人残って会議をしなければならない時に一方的な多数決をされて私に決められたり、給食でスプーンを落として洗いに行って帰ってきて食べだしたら笑いが起き、給食に何かを入れられていたのだろう、なんてことが何度も起こりました。

 給食費の徴収が土曜日だった時のこと。私は集金袋を土曜日には持っていかない学生カバンに間違えて入れてしまい、スポーツバッグで登校、当然集金袋がなく、担任が黒板の横に忘れた生徒の名を書いた時、「貧乏で払えねえ〜」と大笑いを起こされました。カバンとスポーツバッグの話をしても誰も聞いてくれませんでした。

 バカにされている時は、違うグループからも視線を向けられて笑われたり、言われたりしました。そんな傍観者の中には担任も含まれていました。誰が言いふらしたのか、違うクラスや部活の一学年下にも聞こえるように言われました。


 担任に伝えてもはぐらかされ、何もしてくれませんでした。同じグループ内でのことだから、いじめというほどではないと思っていたようです。

 やがて定期的なグル―プ変えがやってきて、私はそのグループから離れました。しかし今度は遠くに陣取る奴らの班から悪口が飛んできます。給食の時にリーダーの合図とともに貧乏の大合唱。担任は目の前で見ているのに何もしてくれませんでした。

 そんなある日、後期の学級委員の選挙が行われました。私を貧乏とバカにしていたいじめ集団が、私を学級委員に投票するように周囲に命令しているのがわかりました。そのいじめ集団の思惑通り、私は学級委員長に選ばれました。

 はやし立ててくるいじめ軍団。そして傍観者。いや、もう傍観はしていません。表情、言動、すべてにいじめの意志がありました。

 実は私は前年までの小3〜中1まで、毎年いじめられっ子として生きてきました。中2ではいじめられないなあと思ったら、貧乏ネタが降ってきて…

私は、前年まで、いや、学級委員選挙の当日まで、決して登校拒否をしたことがありませんでした。私へのいじめがテーマの学級会が開かれるほどの年にも学校に行き続けました。いじめられるから学校にはいかない、は絶対にしない、が、私の主義だったのです。いじめへの対抗だったのです。

 しかし、ここで学級委員を受けたらいじめ軍団の思うつぼだと思いました。翌日に登校拒否を敢行しました。母には、「担任から電話がかかってきたら、『笑い物になるだけだから学級委員になるぐらいなら学校には行かないって言ってる』って言って」と頼みました。

 早速の担任からの電話を、母は私の言う通りに伝えました。数時間後、なんと担任が家を訪ねてきました。これは予想外でした。

 私は、学級委員選挙の時に、いじめ軍団が私に投票するように周囲に頼んでいたことを伝え、断固拒否しました。担任は私の意志に負け、私の学級委員就任取り消し、選挙のやり直しを決定してくれました。何を言っても何もしてくれなかった担任が、登校拒否一発で動いた。

 翌日。私を待っていたのは、いじめ軍団からの無視でした。最高です。私は奴らに何の用もありません。私をいじめてきた軍団が、私のところに来ない。何も言ってこない。

 担任がどのようにいじめ軍団に怒ったのかはわかりませんが、教室から呼び出され、「選挙で企みをしたな?」などと説教されたのでしょう。認めさせられたのでしょう。ほかの生徒にも、こうしたら、こうなる、という事例が残ったでしょう。

 いじめ軍団以外のクラスメイト、違うクラスや学年から貧乏だ何だと言われることは続きましたが、それらを除けば同じクラスの悪質ないじめ軍団が口を聞いてこなくなるという環境。

 私は思い切って、一生に一度の登校拒否を決意したことで多少はマトモな生活を送ることができるようになりました。担任に無言の意志を伝えることができました。

 教師が何もしてくれなければ、違う方法を考えてみましょう。実行してみましょう。環境を変えることができるかもしれません。

 この話はこれで終わりません。私はこの学年末に転校することが決まっており、クラスメイトの誰にも言っていませんでした。担任に頼み、「いなくなってから発表してほしい」と頼みました。私が居る場面で担任から転校を告げられたら、もしかしたらいじめ軍団が話しかけてくるかもしれないと思ったからです。

 修了式の朝に貧乏野郎がいない。休みなのか? やがて担任の口から転校が告げられる、もう引っ越した。その日、いじめ軍団は、「かわいそうだった」「悪いことをした」などと反省をしたそうです。しかし、謝罪したくても、その対象者は、もうそこにはいなかったのです。

 ※投稿者の方が運営しているブログ「何故いじめられたのか」
http://profile.ameba.jp/naze-ijimemondai/



【追伸】
 小3〜高3までの10年間、毎年何かしらのいじめを受けていた学生時代でしたが、今回、ひょんなきっかけから、いじめというほどではなくとも、見下される、威張られる、といった立場を克服できた、克服させてもらった、ということがあった年を思い出し、紹介させて頂きたく思います。


 高校3年の時でした。
 この年は、隣のクラスのいじめっ子に、体育などの合同授業の時に馬鹿にされたりするぐらいで、同じクラスにあからさまないじめっ子はおらず、比較的気楽な生活を送ってはいましたが、一人、嫌な男子生徒がいました。

 昨年度の高2の時も同じクラスだった生徒なのですが、私が高1でいじめられていた時の取り巻き、煽り役の一人と仲がよくなり、取り巻きが、私がいじめられていた昨年からの流れで威張ってきたりする時、便乗して二人組で言ってきたりしたことがきっかけとなって、単独でもそういうことが起こるようになり、威張られる、見下される、押し付けられる、という関係になってしまいました。

 出席番号が近く、掃除の班が一緒だったので、毎日どこかビクビクするような気持ちがあったような気がします。3年になると、取り巻きは違うクラスになりましたが、単独になっても、昨年の威張られるイメージを少し引きずっていたような気がします。

 そんなある日。3学期のことでした。席変えのあと、私の前の席になった男子生徒と、よく話すようになりました。この生徒は、煙草で謹慎になったり、教師に反抗するような態度を取ったりする、いわゆる不良っぽい感じでしたが、不良同士や大勢で群れることなく、いじめっ子ではなく、我が道を行く一匹狼的な生徒でした。

 授業中に二人でおしゃべりをして注意されたり、休み時間に一緒にいたり、体育への移動の時に一緒に歩いていったり、数人のグループ作りの時に一緒に組んだり、周囲から見て、「仲のいい二人」になりました。

 するとどうでしょう。昨年度の高2から私に威張ったり、見下したりしてきた、あの生徒の態度が変わったのです。

 今まで、すれ違いざまにぶつかってしまったり、扉を閉め忘れたりした時に大袈裟に威張られていたのが、同じことが起きても(わざとではありません)、何も言われなくなったのです。むしろ笑顔でいいよいいよ、みたいになったのです。

 私は、威張られる人間から身を守りたくて一匹狼君と仲良くなったのではありません。偶然、席が前後になり、仲良くなったら、周囲の私を見る目、扱いが変わったのです。

この例は、今いじめられている人に使えるのではないでしょうか。偶然を待たず、見えない力を借りることはできないか。

 最後に伝えたいのは、私は、仲良くなった一匹狼君のおかげで威張られなくなりましたが、だからといって調子に乗って、今までのお返しとばかりに威張り返したりするような、虎の威を借るような真似は決してしませんでした。その理由は、いじめられっ子であろう読者さんならわかるでしょう。

 また、こういった例を見ると、いじめっ子の要領の良さがわかります。いじめっ子は、強い者に弱いのです。強い者と一緒にいる弱い者にも弱いのです。本当は、凄く弱いのです



いくつか質問させていただきました。ありがとうございました。

Q1.「貧乏」と呼ばれるようになった、思い当たることはありますか?

・グループ 主に5人
 親玉
 準親玉
 ヒラ
 パシリ(私)
 パシリ

 ある日の授業中、グループの親玉が私を呼び、「あいつがお前の鉛筆をイスの足で壊しちゃったよ。」とパシリ役の子を指差しました。見ると床に、私の小さい赤鉛筆が潰されており、親玉が犯人だと言ったパシリ役に「何だよ!」と怒ったのですが、この瞬間から、「小さい鉛筆潰されたぐらいで泣いちゃった貧乏な奴」というレッテルを貼られました。もちろん実際は泣いてなどいません。

 私ともう一人は、グル―プ内のパシリ役コンビのような位置づけで、親玉が煽って、二人が軽いじゃれあいのような喧嘩をする、というのが班の恒例になっていました。例:親玉 「あいつがお前のこと▲▲って言ってたぞ」と嘘をつき、そいつも嘘だとわかっていますが、「おい、(イスから)立てよ!」 「(股間が)立ってっぺよ!」なんてかけあいをして笑わせるような…

 なので、今回も、鉛筆を壊したのが親玉であることは知っていましたが、別にわざとじゃないだろうし惜しくないし、おふざけの喧嘩の煽りだと思い、大袈裟にそいつに怒りました。これがすべてのはじまりでした。

 また、この地域(茨城県稲敷郡阿見町)には小5の時に転校してきたのですが、同じ登校班に親が金持ち、というか、言えばいくらでもお金がもらえ、何でも買ってもらえる同級生(いじめ軍団のヒラ)がいて、私は親の方針で周りと比べて経済力が少ないため、登校班内で「持っていない、買ってもらえない」と見下されたり、時には手下のようについていって奢ってもらったり物を貰ったりしていました。

 この関係は皆知っていたので、グループ内では、鉛筆事件の前から、口には出さずとも「あいつの家は貧乏なのかもな」というイメージはあったと思いますし、前年度に私をいじめていた人間が、親の手作りのカバンを嫌味に言ってきたなんてこともありました。


Q2.もしも、今のあなたと、当時のあなたの「こころ」が入れ替わったら、どのように行動しますか?

 即、登校拒否を敢行します。


Q3.ひどいからかいが起きたとき、どのように自分を励ましましたか?

 母に、「貧乏だみたいに言われる」と一度だけ言ったことがありましたが、「何も言わないで下向いてるからだよ!」と怒鳴られて終わりでした。このため、何も励ますことはできず、ただただムッとして下を向き、時々「うるせえよ!」と言うぐらいでした。


Q4.担任の先生について教えてください。

 1986年度当時 男性で20代でした。前年まで小学校の教員で、初の中学校と聞きました。担当は国語でした。太宰治の大ファンで、小説を書いているらしく、自らを(ウケ狙いもあるでしょうが)「文学者」と呼んでいました。また、サッカー部の副顧問でした。スポーツ歴はサッカーと柔道と聞きました。小学校の教員時代はサッカーの監督をやっていて、いつかは正顧問になりたい風でした。


Q5.その担任の性格について教えてください。

 面白い先生で人気がありましたし、いざという時の威圧感もありました。でも、元気がよくて授業中に面白くもないウケ狙いで誰かを大笑いのネタにするいじめっ子気質のお調子者生徒がいて、そいつのことをかわいがっていたように思います。そいつが貧乏ネタに食いついてきてしまいました。


Q6.担任が授業をしているとき、生徒たちはおとなしく聴いていましたか?

 聞いていました。どちらかというと体育会系で、「 〜コラ!」という語尾から、「ヤクザ」という影のあだ名がありました。時々おしゃべりやふざけが起きると、一喝で生徒は黙りました。


Q7.クラス替えのあと、同じグループの人たちは仲よくしてくれましたか?

 してくれましたが、元のグループから貧乏ネタが発せられた時は皆ニヤニヤしていました。


Q8.いじめのリーダー格の性格ついて教えてください。

 自分の手でいじめたり、バカにするのではなく、人に言わせて喧嘩を起こさせるというのをしょっちゅうやっていました。運動神経がよく、足の速さが学年トップクラスだったのを覚えています。

 2年から野球部に入っていましたが、途中で退部していました。運動の素質はあるのに一生懸命やらない。いじめられていない時は、あいつ勿体ないなあ、と、お節介に思ったものです。


Q9.もしも、いじめっ子の「その後」を知っていたら、教えてください。

 親玉は不明です。

 副親玉は、私をmixiで見つけ、俺はお前をいじめてない、友達だったと思ってる、と言ってきました。高校で野球部に入る(一応レギュラー 県ベスト8)。 その後、会社に就職し30歳でやめる(29で結婚 相手は地元ではない)。 理学療法士って資格をとる為に学校に入りなおし国家試験に合格しました。現在は病院に勤務しています。リハビリの仕事で、身心や経済的にも弱っている人たちを相手にどうすれば改善できるかって事ばかり考えている。
 貧乏とバカにし、時には暴力をふるい、それらがいじめじゃないと言った人間が、よくこんなことが言えたもんだと今でも許せません。そう伝えました。その後すぐmixiを退会していました。

 いじめ軍団のメンバーではありませんが、後期のグループで一緒で班活動を一緒にしたりしたクラスメイトは、mixiを通じて、「いつまでも、小さいこと(貧乏ネタ) こだわってんなよ」「別にいじめられたとかなかったんじゃないの?」「被害妄想だよ」と言ってきました。反論すると退会していきました。


Q10.いじめっ子たちのやらせで学級委員長に選ばれたとき、どのように思いましたか?

 歯で口の中の皮を切れるほど噛みました。家に帰る途中で自殺しようと思いました。でも方法が思いつきませんでした。


Q11.もしも、その時の瞬間をやり直すとしたら、どのように行動しますか?

 荷物をまとめてその場で帰ります。


Q12.小3〜中1のときは、ご両親にいじめのことを相談しようとは思いませんでしたか?

 思いませんでした。両親とも、いじめられる方が悪いという考えでした。(昭和19年、21年生まれ)なので「何でやり返さないの!」と言われるのは火を見るより明らかでしたから、隠し通しました。


Q13.小3〜中1までの間で、先生や親に相談して解決してもらったことはありますか?

 小4の時の担任が毎日の課題として日記を提出させていたのですが、この日記にいじめのことを書いて伝えることができたことがあります。でもすぐには動いてもらえず、朝のホームルームまでの時間にいじめられて泣かされ、そこに担任が来て何やってるんだ、という話になり、そのまま私へのいじめの話になって、いじめがなくなったということがありましたが、ほかの年は先生や親には言いませんでした。ほかの生徒からの担任へのチクリがたまりたまって…、で伝わったのでしょう、中1では担任の目の前でいじめられていました。


Q14.小3〜中1までの間で、いじめに対してどのように耐性がついていきましたか?

 とにかく、登校拒否だけはしない、と決めていたような気がします。〜中3、高校も一緒でした。もしかしたら、いじめに対する慣れみたいなものもあったかもしれません。


Q15.学級委員のことで学校に休みの連絡をしてもらったとき、お母さんにはいじめのことを全て話しましたか?

 前述で、少しだけ貧乏を言ったことがある以外は、この年の貧乏のことも当然言いませんでした。10年間のいじめ、すべて隠していました。この時だけは早く帰って言おうと思っていました。これまで感じていた「あんたが何とかだから…」と言われるかもしれない、というのは全く頭にありませんでした。

 学級委員になった時だけ、学校から帰って「学級委員は絶対やらないから学校に行かない」と宣言しました。母にしてみれば、突然の学級委員ばなしになったでしょう。本来は、いじめ→学級委員なのですが。


Q16.お母さんは、何と言っていましたか?

 「別に(学級委員を)やればいいじゃない」と言いました。私は登校拒否を決めていましたが、翌日は「本当に行かないの?」と少し騒ぎになりました。どうやら学級委員就任の日に泣いて愚痴って、はい明日から普通に学校いくんだな、学級委員やるんだな、と思っていたようです。

 無理やりだった塾や習い事、行きたくないと言えば「行きなさい!」と怒鳴りつける母でしたが、この時は少しライトだったような気がします。


Q17.お母さんは、どんな性格の方ですか?

 父同様、いじめられる方が悪い、何も言い返せない方が悪い、という考えでした。特に母は、マラソン大会でビリの方だった時に怒ったり、授業参観で担任が出した問題に私が手を挙げられないと教室を出て行くような人でした。こんなこともできないのか、わからないのか、という性格でした。


Q18.家庭訪問したときの担任の先生は、どんな様子でしたか?

 「連れ戻しに来たんじゃない。本当の気持ちを聞きにきた」とはじめに言ったのを覚えています。焦っている様子はありませんでした。しかし、登校拒否されたらヤバイ!と思ったのだと思います。落ち着いてはいましたが。

 やってきた時間帯は担任の授業のある時でしたから、授業をつぶして来たのです。母は「ここまでしてくれて…」みたいなことを言っていましたが、私は、「ここまでやらないと、ここまでしてくれない」と思いましたし、今にしては、保身のためのことのように思います。結果は私にとっていいものにはなりましたけれども。


Q19.訪問のとき、お母さんは落ち着いて話をしていましたか?

 落ち着いていました。学級委員就任拒否の方向に少しかばってくれていたと思います。


Q20.その後は、「貧乏」という言葉が出ても、クラスでは笑う人たちは減りましたか?

 それが、減るどころか少し増えました。でも、軍団から直接言われることはない、と思っていました。


Q21.その後は、いじめ軍団はからかってきませんでしたか?

 家庭科の時間など、出席番号順に座る時、私の机がたまたま軍団の誰かの席になり、私の机をバイキンのように扱って後ろに追いやっていました。でも聞こえるように大声で嫌味を言うだけで、直接言ってくることはなく、名前も言わなかったので、別に放っておきました。向こうも反応を楽しむ、というような雰囲気ではありませんでした。


Q22.もしも、登校拒否をして担任が動かなかったら、どのように行動しますか?

 転校したと思います。どうせ年度末に転校するんですし。姉が受験を控えて夏休みに祖父母の家に住んで転校していましたし。


Q23.いじめ軍団がおとなしくなった後、担任の先生は気にかけてくれましたか?

 普段はありませんでした。ただ、秋の三者面談の時に「あれから楽になったか?」とは言ってくれました。「ハイ」と答えました。


Q24.いじめ軍団がおとなしくなった後、お母さんはそれを聞いてなんと言っていましたか?

 三者面談の時、「相手にされなくていいんじゃないですか」と言っていました。その答えに不満はありませんでした。


Q25.後になって、いじめ軍団は「かわいそうだった」「悪いことをした」と反省していたことを知ったそうですが、それはどのようにして知りましたか?

 転校していた、隣の家の同級生が私が転校先を去ったのと入れ替わりで、元の家に戻ったそうなのです。1年ぶりに友達と再会、となったらしいのですが、いじめ軍団とそいつが私のことを話題にした時、「今度電話とかすることあったら、あいつに学級委員のこと悪かったって言っといて」と副親玉が言っていた、と、電話で話した時に聞きました。


Q26.中3のとき、クラスに仲の良い友だちはいましたか?

 いましたが、もしかしたらうわべなのかなあ、というような心がどこかにありました。でも昨年度の貧乏に比べれば…と思っていました。


Q27.中学のとき、部活には入っていましたか?

 バドミントン部。しかし運動神経がよくないのに運動部に入ってしまって後悔しています。


Q28.「これがあったから耐えられた」というような、夢中になっていた趣味はありますか?

 ありませんでした。いじめを特に受けていた時期は引越し先で平屋の社宅で、子供部屋もなくいつも家族が目の前に居て、流行りもの、趣味、などすべて親や兄弟の目にさらされていました。キン消しや週刊ジャンプ、ファミコンの趣味はいつも嫌味を言われ否定されました。

 一台のみのテレビのチャンネル権は時代劇が大好きな父。学校で流行っていた西部警察を見せてもらえませんでした。夏休みに従兄の家に泊まりに行った時、石立鉄男のドラマが面白くて、「ウチはお父さんが暴れん坊将軍見るから」と言ったら、叔母と従兄が顔を見合わせて「それじゃあ学校で話の輪に入れないよね」と言っていました。私は父が絶対、という教えでしたから、こんな考えもあるんだ、と意外に思ったのをおぼえています。

 こういったことも、流行遅れの奴、みたいなイメージにつながっていったのかも??? 話がそれました…


Q29.一人で休み時間を過ごしていたとき、どんなことをしていましたか?

 何もせず席に座っていました。


Q30.転校先に移ったとき、これからいじめられないために気をつけたことはありますか?

 まったくありませんでした。


Q31.転校生がいじめられないために、何かこうしたほうがいいんじゃないかという案はありますか。

 一度目の転校後、「転校生のくせに呼び捨てにしてるんなん」 「俺たちのアダナを気安く使うな」 「お前がいなかった学年の時の話に入ってくるなよ、知らないくせに」みたいなことを言われたことから、二度目の時は、あだ名を極力避け、誰かを呼ぶ時は、「ねえ」や、指で体をトントン、しかできなくなりました。それがかえって目立ってしまい、一部で私のアダナが『ねえ』になってしまいました。

 転校生が来たら、転校生が自己紹介をするだけではなくて、転校生のために在校生が一人づつ自己紹介をしたらどうでしょう。「●●と呼んでくれ」とか。


Q32.転校したとき、どんなことを考えていましたか?

 やはり、もしかしたら前年度のようにまた『貧乏』と言われてしまうのではないかと少しビクビクしたのと、遊びで学級委員にされるのではないかという心配がありました。学年はじめの頃、後ろの出席番号の生徒が違うクラスの何人かから軽く貧乏と呼ばれているらしく、廊下からそのフレーズが出るたびに少し反応してしまいました。

 学級委員選挙では一票も投票されませんでした。でも、転校直後の一度目の選挙の時は心配はありませんでしたが、二度目以降の選挙が近づくと、クラスメイトに「今度の学級委員誰になると思う?」と聞いたのを覚えています。さらに担任に何かを提出する時に、「学級委員に向いていないダメな奴」と思わせるために、わざと全員の前で怒られるように失敗したものを提出した覚えがあります。

 この年、水泳大会の時、いじめっ子の学級委員に、一度はラクな種目に決まったのに、強引に水泳部が出るようなレースに変更され、結果大ビリで恥をかかされたことがありました。このように、学級委員選出、班のリーダー選出、運動の代表選出、こういった場面にいじめが入り込んで来ることは多くあります。教師は、多数決はいじめっ子の影の命令があることを知ってもらいたいです。


Q33.いじめで転校を考えている子どもがいたとしたら、転校を勧めますか?

 強く勧めます。子供だけでなく、親に特に勧めます。さらに、「転校先で、しっかりとした担任のクラスに!問題児を避けて!」とお願いせよと言います。


Q34.もし、いじめられてよかったと思えることがあったら教えてください。「人の辛さが分かるようになった」とか「優しくできるようになった」とか…

 残念ながら、まだないです。本来なら受けなくていいものを受けてしまったようで、無理やりによかったことを作ってしまいそうなのが、何だか恐いのです。もしかしたら、物書きのネタになったこと? でも、よかったとは思えません。


Q35.「あの時、死なないで良かった!」と思えるような出来事を教えてください。

 30歳位の時、交際していた女性と雨の日に遊んで家に行った時、濡れた靴下を台所で洗ってくれました。小3〜4でバイキン呼ばわりのいじめを受けており、私や私の物に触れると「バイキンがついた〜」とタッチの連鎖。掃除ではだれも私の机を運ばず、給食当番の時は私がよそった物を食べない女子生徒がいる。交際していた女性には、私のすべてのいじめ体験を話していました。え? バイキンだった俺の靴下を洗ってくれるの? と、本当に嬉しくて、「くつしたあらってくれてありがとう」、と、まるで小学生が親戚にお年玉を貰った時のような喋り方になってしまいました。

 俺はもうバイキンじゃない。バイキンじゃないって思ってくれる人がいるんだ、と、自信になりました。


 でも、死ななかったから、今がある、という感情は残念ながらないのです。確かに今はありますし、よかったこと、楽しかったこと、あったはずなのですが、それは、自分がいじめを乗り越えたから得られることなんだ、と思えない人間になってしまいました。

 嫌な経験を覆い隠して忘れられるような経験は、まだありません。もしくは、一生、覆うことのできない悪の思い出として存在していくのかもしれません。趣味の活動も、仕事も、出会いも、恋愛も、結婚も、人並みにありました。しかし、まだ覆っていません。

 私は、「あー死なないでがんばるといいことあるんだなー」と、伝えるとして、そのいいことがいまだに見つけられていません。それよりも、「人をいじめるといつかバチが当るぞ。復讐が来るぞ」ということをいじめっ子に贈りたいです。


 人を貧乏とバカにし、暴力をふるい、学級委員作戦が失敗すると無視を仕掛けてきた奴と20数年ぶりにmixiで再会し、「俺はいじめてない、今は病院でリハビリの仕事をしていて精神的経済的に弱っている人たちを助けたい」とメッセージが来ました。

 私は、貧乏の話や、いじめの話の質問を返信しました。しかし、返事には、私の質問の答えは一文字も触れられていませんでした。話をそらされました。私は、そいつが働いている病院を調べ、「過去のいじめに向き合わない人間がリハビリの仕事ができるものか」等と病院に手紙を書いてしまいました。

 いじめっ子の名前をよくネットで検索します。住所が変わっていないか調べることもあります。そうして本人のみならず、会社の上司や親に、手紙を書いてしまうのです。

  私はそういう人間になってしまいました。病気かもしれません。間違っているかもしれません。私はいじめっ子になってしまったのかもしれません。

 もし間違っていないと仰ってくださるならば、「生きていれば、何十年前のことであっても、俺が代わりに合法に復讐してやる」と言ってあげたいのです。やはりいじめっ子になってしまったのか?

 また、親や教師は、私のような人間が出来上がらないように、即行動してほしいのです。いじめの対応は救急車です。一分、一秒の遅れが生命を左右します。


Q36.ご両親は「いじめられるほうが悪い」と考えるタイプとのことですね。ご両親に対して怒りの気持ちが少しあるように感じられますが…。

 その通りだと思います。例の中学の時は、学校は嫌だ・家も嫌だ・部活も嫌だ、で、週二回の学習塾が一番安心できるひとときでした。しかしそのうちに貧乏ネタの発起人と取り巻きが塾に入ってきて、塾長まで大笑いの一員になりました。

 「お前は、親に謝って欲しいんじゃないのか?」と言われたこともあります。その通りだと思います。「そもそも、親にいじめられていたんじゃないですか」と言われたこともあります。

 世間一般では、親は偉いことになっています。母は、働いてお金を得ている人は何をしてもいい(例・酒乱)、文句を言うならお前はお父さんみたいにお金をいっぱいもらってこれるのか!、ここにはお前の物は何もない、全部お父さんが働いて買ったものだ、と、幼稚園の時から言われてきました。育ててやった、食わせてやった、買ってやった、ミシンを捨てる時に「これで内職してお前のお菓子や漫画になっていったんだ」


Q37.最後に、いじめられている子に向けて、メッセージをお願いします。

 一言になってしまいますが、『いじめられたら逃げろ』これにつきます。私は、とうとう『俺は貧乏じゃない』と周囲に分からせることができませんでした。今でも思っている人がいるはずです。当時、恐い教師が『あいつの家は貧乏じゃないぞ!』と怒っても、謝るのは外ズラだけで分からせられなかったと思います。

 いじめられっ子気質がマラソン大会でウンコを踏んでしまったら、いじめっ子気質が言い触らしたら、もうおしまいなのです。これが子供社会というものです。いじめられたら逃げろ!




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