いじめと戦おう!〜対策と克服法〜
78.小1〜4女子・・・学校でのいじめ(現在、31歳)

 ご本人からのメール

〔いつごろから?〕
 小1〜小4

〔いじめグループは何人?〕
 時期によるけど、いつも複数だった。

〔どんな悪口を言われていたか〕
 メガネをかけていたので「メガネザル」

〔いじめのくわしい内容〕

【小1】
 きっかけは小学校入学。おそらく、遠視でメガネをかけてたというだけで目立ってしまっていた。それと、不細工で運動音痴だったということも関係したのかもしれない。

 入学式の翌日、U君から耳元で大声で「メガネザル」とか「がーっ」とか怒鳴りながら追いかけ回された。U君は、なぜか先生からは可愛がられてクラスでもわりと人気があった。その後も、メガネザルは日常茶飯事のように言われ続けた。しかし、メガネザルを図鑑で見てかわいいと知った後は、それほど嫌とも思わなくなっていた。

 S君が隣の机に座っていた時は、机にかけていた水筒とか袋を蹴り続けられて水筒はへこむし、袋も足型で汚れてしまった。母親からは「なぜ物を大事にしないのか?」と、とても怒られた。S君に蹴られたと言っても、母親は「あそこのお母さんいい人よ。そこの子がそんなことするかしら」と言って信じてくれず、余計に怒られた。

 視力検査のメガネかけての検査では、先生自身からも、「ねぇ、検査の意味分かってる?空いているところが上か下か右か左かを答えるのよ。それだけよ」と注意された。クラスメイトたちからも、かなりはやし立てられて馬鹿にされた。その後も、視力検査ごっこなるものを仕掛けられては笑いものにされた。しかし、実際は眼科に通っていたので、私は他の子よりも検査のやり方は心得ていた。遠視で、メガネは近くに合わされていたため当然ながらよく見えなかった。


【小2】
 身体測定の日には、保健室の前に置いていたはずの上履きを、駐輪場の屋根の上に隠された。それを担任が見つけた。雨降りの日だった。靴下のまま上履きを探し回った結果、靴下がどろどろになってしまった。その日の下校前に担任が「誰が隠したのか」と聞いたけれど、誰も手を挙げなかった。家に帰ると、母親に靴下を汚したことについて、とても怒られた。説明しても理解してもらえず、母親が担任に説明を聞いて、やっと意味を理解したらしい。

 小2のかなり終わりの方で、U君やT君と一緒に運動場の石拾い当番になった。そうじが終わって引き上げる途中で、U君とT君が後ろから、私にめがけて石を投げつけた。その1個(わりと大きめ)で、T君の投げた石が私の頭に当たってタンコブができた。次の日に母親に髪をとかしてもらっていた時にタンコブを指摘された。私はとっさに、トイレのドアに頭をぶつけちゃったと答えた。後日、担任と校長から両親に連絡が入り、担任と校長、T君親子、U君親子が家に謝罪に来た。どうやら、同じ石拾い当番だった他の子たちが担任に伝えたらしい。

 担任から、あれやこれやと「学校でされた嫌なことはどんなことがあったか、誰が何をしたのか」と聞かれた。思いついたものを答えたような記憶がある。


【小3〜4】
 クラス替えで多くのいじめ関係者はクラスを外されたが、なぜか、U君とは同じクラスになってしまった。案の定、U君を中心とするいじめが続いた。その他、Hさんをリーダーとする集団からも、いじめられるようになった。

 U君、Tさん、その他の人たちが私が見ていた図鑑を取り上げた。メガネザルのページを広げて「おまえメガネザルがかわいいとか、ほざいてたらしいな。よう見ときや。かわいくなくしたるから」「こいつがお前のわら人形や、しっかり見とけや」と言いながら、黒と赤のペンでメガネザルをぐちゃぐちゃに塗ってしまった。赤のペンで血が出ているような絵も描いていた。すごくぞっとしたのを覚えている。

 ある日、Hさんを中心に私は宇宙人扱いをされた。「近づいたら一緒に宇宙に連れて行かれるから、半径1メートルに近づいたらあかん」とかいう変なデマを流された。私はさっぱり意味が分からなかった。しばらくしたころにAちゃんがこっそり解決法を教えてくれた。「通学路の塀のくぼみを触ったら、宇宙人ののろいが解ける」と。そのとおりにしたところ、Aちゃんが「のろいが解けた」という話を広めてくれたようで、とりあえず、宇宙人さわぎは一件落着した。

 Hさんは授業中、私が答えた時には執拗に「付け加え」とか言って、なんやかんやと発言を繰り返していた。私にとってはどうでもよかった。ランドセルの中の物を勝手に掘り出されて、床に投げつけられたり、下敷きを裂かれたり、消しゴムを切り刻まれたりした。これは、家に帰って私は自分から母親に謝った。

 走り方が変だと言って真似をされたり、みんなの前で走らされて笑われたりした。休憩時間や、給食のために放課後居残りで食べている最中に、4〜5人に順番に机を蹴飛ばされたりしたこともあった。

 何かされた際に私が「やめて」と言うと、なぜか、変なイントネーションで「やめてよ〜ん」という妙な返答が返ってきたりした。そのうち、そのイントネーションでの「やめてよ〜ん」が、クラスの流行語になり始めた。Aちゃんが私にこっそり、「あれは物まねをしているから、『やめて』とか言うのやめた方がいい」と教えてくれた。その後は、私は何をされても徹底的に無視するようになった。そうすると気楽なようにも感じたが、他方で、物理的には近い距離にいるはずのクラスメイトたちが、みんな遠い距離にいるような感覚がでてきてしまった。


【小5で転校】
 小4が終わった時に、私の家族は引っ越した。私は別の小学校に転校した。当時は引越しの理由について、父は「無性に引っ越したいから」、母は「実家の世話ももっとできる場所に引っ越すことにした」とか聞かされていた。後から聞いた話では、両親は私の様子を心配してくれていたらしい。

 小5からは、いじめはなかった。
 小5の初め、とても緊張して誰に話しかけてよいかわからなかった。何となく、自分の方を気にしている子(Rちゃん)がいたので、話しかけようかどうか迷っていたところ、クラスのリーダーっぽい子(Mちゃん)から、「あの子をにらむのはどうして?あの子、ずっといじめられてて傷付いているのに」と抗議された。にらんだつもりはなかったので、そのように説明したところ、誤解は解けた。


【小5〜高3】
 小5〜高3は、結局、自分の殻に閉じこもっていた。話しかけてくる子は拒まないけれど、自分から話しかける勇気がなかった。自分には話しかける資格もないし、話しかけたらウザイと思われるにちがいない、という感覚が抜け切らなかった。友だちの輪は広がらなかった。休憩時間も。一人で勉強に打ち込むことが多かったし、それを楽しんでいる振りをしていた。「一人でもさびしくない。一匹狼ってカッコイイじゃないか」と勝手に思い込もうと、意地を張ってしまっていた。

 話しかけられるということを想定しない日々が続きすぎたせいか、話しかけられるだけで過剰にびっくりする症状が中2ころから自覚症状として出始めた。今も残っている。というか、どんどんエスカレートしている。病院に行ってみたことはあるが、よく分からないとしか言われなかった。

 勉強の成績だけはよかったし、親もそれを喜んでくれていたので、勉強で変な点をとることだけは怖くて、必死になって勉強して成績を維持し続けていた。そうやって、自分を保っていた。


【京都大学理学部から法学部に転部】
 数学が特に好きで得意だったという理由だけで、何となく京大理学部に進学した。しかし、人間関係になじむことができず、目標を見つけることもできず、しんどくなった。大学は人が多い分だけ、その中でしっかりと友人関係(学友)をつむぐ力がないと、すごく居心地が悪い。急に孤独感にさいなまれた。

 不意に、「どうして自分は人に話しかけられないのだろう。どうして、せっかく勇気を出して話してみて仲良くなりかけても、話しかけられる度に大げさにびっくりして固まってしまうのだろう」と悩むようになった。「小学校時代のいじめが原因で臆病になってしまい、友だち関係を築く努力も、友だちとの接し方を学ぶ努力も、怠ってしまったせいだ」という結論に行き着いた。

 自分をこういうふうにした人たちのことを、とても憎いという気持ちが芽生えた。他方で、そういう憎しみの気持ちが、自分の中で受け入れられなかった。そういう気持ちを持っている自分のことを怖い、駄目なヤツ、という感覚も同時に生まれてしまった。かけてほしいのに誰もかけてくれない言葉を、携帯電話の着メロ機能での作曲と詞付けをすることで解消しようと頑張った。精一杯に自分を維持しようとしていたが食欲がなく、体重が一時期34キロくらいまで下がった。

 そうこう悩んでいる時に、法学部の人と知り合って司法試験とか弁護士という進路を見つけた。「いじめこそ人権侵害の最たるものだ」という感覚と、「目標にすがりつけば、なんとか頑張れそう」という感覚から、法学部に転部して司法試験を目指してみようと決めた。家族にも宣言して、そこからはまっしぐらに突っ走った。それでもやはり、しょぼいミニ作詞作曲はずっと続けた。応援ソングなんかも作るようになった。


【いじめられっ子を救うため弁護士に】
 そんなこんなで、無事に司法試験に合格し、今は弁護士をしている。相変わらず人付き合いが苦手で、人に対する恐怖心とかコンプレックスは抜けきらないままではある。でも、それはそれで背負っていくしかないのかなと思って開き直っている。

 弁護士かつ元いじめられっ子として、いじめ対策には特に力を注いでいきたい。それが生き甲斐になりそうな気がしている。そう思えば、いじめというのも貴重な体験だったのかもしれないと思える今日このごろである。

 最近、ふと振り返ってみた。結構、石拾い班で一緒だった子たち(恐らくタンコブ事件を先生に話してくれた)や、Aちゃんにすごく救われていたのだな、ということを実感している。





たくさん質問させていただきました。ありがとうございました。


Q1.いじめのきっかけとなった「メガネ」について教えてください。

 4歳からかけていました。裸眼では0.3〜0.4くらいだったと思います。メガネをかけた遠方視力は、多分、0.5〜0.6くらいだったような気がします。


Q2.ほかにメガネをかけている子はいませんでしたか。

 小学2年生までは、いなかったです。小学3年生の途中くらいからはいたと思います。


Q3.「運動音痴」だったことについて教えてください。

 走るのがかなり遅かったです。50m走で10秒超えていたと思います。ボールを投げても、あまり遠くまで飛びませんでした。縄跳びでも、後跳びは数回しかできず、二重跳びは1回しかできませんでした。二重跳びは、その後高2の時に体育の実技試験のために必死で練習しました。最高18回できたことがあります。合格ラインが20回だったので、結局不合格でしたが・・。


Q4.「メガネザル」と言ってからかってきた男子について教えてください。

 U君は、クラスの中心になって笑いを取るタイプでした。自分が注目を集めないと、気がすまないという感じのタイプでした。


Q5.「メガネザル」と言われたとき、どのように思いましたか。

 まず、響きとかそれを言っている人の声のトーンとかが、すごく嫌な感じでした。


Q6.「メガネザルがどんなものか調べてみよう」と思ったのは、言われ始めてすぐでしょうか。

 いつぐらいかははっきり覚えていないですが、すぐではなかったような気がします。ただ、あんまり言われるので、もし図鑑に載っていなかったら「そんなサルいないよ」とでも言い返してやりたいなと思って見たんだと思います。そしたら、図鑑にはちゃんとメザネザルが載っていて、それが思いのほか可愛らしくて拍子抜けしたんです。


Q7.メガネザルが可愛いと分かったあとの変化について教えてください。

 声のトーンがすごく馬鹿にするような嫌な感じだというのは、変わりませんでした。私の心境としては、「きっとメガネザルが実在することとか、それがどんなサルかも知らずに言ってるんだろうな…」と、ちょっぴり優越感みたいなものもあった気がします。優越感というより、自分だけが秘密を知っているという、なんとなく楽しい気持ちというのかな・・・。

 ただ、あんまり楽しいそぶりを見せちゃったら、今度は別の嫌な呼び方をされるに違いないと思いました。そこで、あえて嫌な振りは見せたままにしていました。実際、声のトーンとかが嫌だったのは本当だったですし。


Q8.無視できるようになってから、U君のからかいは減りましたか。

 U君は、4年間ずっといろんなことをしていじめてきました。減ったという感覚は、一度もなかったような気がします。


Q9.いじめっ子に蹴られて水筒がへこんだんだと言っても、お母さんは信じてくれませんでしたね。どのような気持ちになりましたか。

 とても悲しかったです。「母に対しては、何があっても絶対に他の子のことを悪く言ってはいけないのだ」と思いました。


Q10.もし、あなたがお母さんで我が子がそう言っていたら、どう対応しますか。

 自分の子どもの話を信じると思います。それから、「荷物はできるだけ机のS君側じゃない方にぶら下げたり、ロッカーに入れた方がいいかもね」と話したりするかもしれません。

 対応としては、こうします。S君のお母さんと親しいのなら、まずは断定的な表現はしないながらも事情を話します。言動について気をつけて見てもらえるよう、お願いくらいはするような気がします。


Q11.小1の先生が言った、視力検査のときの配慮ないひと言で悪化しましたね。どういう先生でしたか?

 小1の先生は、まだとても若い先生だったと思います。小1の終わりごろに産休に入ったので、小2の担任は臨時の先生でした。


Q12.小2のとき、「靴を隠されたからくつ下がどろどろになった」と言っても、お母さんは分かってくれませんでしたね。先生から事情を聞いたあと、お母さんはなんと声をかけてくれましたか。

 母から聞いた言葉は、確か…
「先生から聞いたけど、全然違うところに靴があったんやてな。先生が『悦子ちゃんは悪くないから叱らないで下さい』って言ってたわ。ごめんなぁ。けど、何でちゃんとお母さんに分かるように説明してくれなかったん?」という感じでした。

 謝ってはくれたんだけど、私の説明が悪かったせいだというニュアンスも入っていました。少し微妙だったので、私も「あっそ」くらいの返事しかできなかったような記憶です。なんというか、当時、私と母の歯車はなかなか合わなかったんです。母も悪気はなかったということは、私にも分かってはいたのですが。


Q13.お母さんは、どんな性格の方ですか。

 そうですね。子どものことを大事だとは思ってくれていると思います。母は思い込みが強い方で、こうだと思い込んだら、なかなかその誤解から抜け出せないことが多いです。今はそうでもないのですが、昔は他人に優しくて家族に厳しいというところもありました。

 それと、母の時代にはあまり陰湿ないじめというものがありませんでした。だから、私の身に起きていた出来事を、なかなか想像できなかったのだと思います。それはそれで仕方のないことだと思います。私にとっては嫌なことではありませんでしたが、母の成績・学歴至上主義的発想は、かなり強固でした。


Q14.小2で石をぶつけられてタンコブができたとき、お母さんにはウソをついて事情を言えませんでしたね。「どうせ信じてもらえない」と思ったんでしょうか。

 当たった石は大きめだったけれども、タンコブ自体はそんなに大きかったという記憶でもないんですけどね。私は、(姉いわく)石頭でしたので(笑)。
 
 そうですね。当時は、私は「母には何を言っても、自分が悪いことにされるだけだ」と諦めていました。自分でドジをして怪我したことにしておく方が面倒くさくなくていいと思って、嘘をついてごまかしました。


Q15.石をぶつけられていたことを先生に言ってくれた子たちとは、仲がよかったんでしょうか。

 二人の女の子のどちらが言ったのかは分かりませんが、二人とも特に私と仲がよかったわけではありません。


Q16.先生に言ってくれた二人の女の子は、どんな性格でしたか。

 1人はリーダーかどうかはよく分かりません。でも、はきはきしていて正義感を持ってる感じの子でした。私の目の前でも「大丈夫?」(U君とT君に)「何してるの!今、その石当たったの見たよ。そんなん投げたら危ないでしょ!」と言ってくれていました。もう1人は、おとなしい子でした。


Q17.小2のときに色々動いてくれた、臨時の担任の先生について教えてください。

 女性で、30代くらいだったと思います。授業中も、特別緊張感が漂う空気ではなかったですが、ごく普通に授業が進行していました。生徒たちも静かに聴いていました。
 母は、頼りないと言っていました。でも、私からみると優しい先生でした。その先生も、小学校のころからメガネをかけていて「メガネザルとか言ってよくからかわれた」と言っていました。


Q18.家に謝りに来たいじめっ子の親は、どんな様子でしたか。

 T君とU君の親は、家に謝罪に来たのでなんとなく覚えています。
 T君の親は、謝りに来た時一応の謝罪の言葉は言っていました。でも、「もう一人投げてる子がいたんでしょ?たまたまうちの子の石が当たったみたいですけど」ということも言っていました。その横で、T君もへらへら笑っていたような覚えがあります。それで、うちの両親は後で「T君の親は非常識にもほどがある」と言って怒っていました。
 U君の親は、神妙に謝ってくれた気がします。うちの母も、U君の親のことは「親御さんは、悪い感じの人じゃないね」と言って気に入っていました。


Q19.小3で、図鑑のメガネザルを「お前のわら人形だ」と言ってぐちゃぐちゃに落書きされたとき、先生や親に相談しようとは思いませんでしたか。

 この「わら人形」事件は、人に話しても伝わりにくいと思います。でも、私にとって相当ショックな事件でした。
 小3の担任の先生って、私の中でとても印象がうすいんですよね。どうしてかな…。別に、先生について特に嫌な具体的思い出もないんですけどね…。ただ、気のせいかもしれないけれど、わりとU君と仲よかったように見えたので近寄りにくかったのかもしれないですね。それと、小2の先生が結構好きだったのに、1年間だけの臨時でいなくなってしまったんです。私が勝手にさびしい気持ちになって、小3の先生に心を開かなかっただけかもしれません。

 母からは石の事件の後、「目立つことしたら、いじめられるんやで」「嫌なことをされたら嫌だという意思表示をちゃんとしないと。相手もあんたが嫌がってるて分からんから、いじめてくるんやで」と言い聞かされていました。いじめられたと言うと、また「あんたが○○やからあかんのや」とか言われる気がして、あんまり言いたくなかったような気がします。

 私は父のことが大好きだったのですが、なぜ言わなかったのかな…。たぶん、父は仕事で忙しくて、あまり一緒に居る時間が長くなかったんだと思います。それと、父がいるところにはたいてい母も一緒にいたような気もします。


Q20.小3の担任の先生はどういう方でしたか。

 それが、あんまり覚えていないんですよね。中年の女性で、おとなしい感じの先生だったような記憶です。ちなみに、小3と小4も担任が違いました。小4の先生は、いつもHさんと楽しそうに話していました。


Q21.小3で「宇宙人」呼ばわりされときに作り話で救ってくれたAちゃんは、どういう性格の子でしたか。

 みんなから慕われている明るい子でした。運動もとても上手でした。顔に自身があるようで少しナルシストな女の子でした。家が近所だったからなのか、私のことを気遣ってくれているようでした。


Q22.Aちゃんのその後について、もし知っていたら教えてください。

 それが、引っ越して連絡が途絶えてしまっていて全く知らないのです。幸せになられているといいですね。


Q23.Aちゃんが言ってくれた「のろいが解けるくぼみ」について教えてください。

 この宇宙人騒ぎについては、私は本当にさっぱり良く分からないんです。のろいが解けるくぼみの件もAちゃんから聞いただけです。私も実のところ、何のことやらよく分かりません。塀に小さな足跡みたいな形のくぼみがありました。Aちゃんがそれを指差して、「それを触って」って言ったので私はそれを触ったんです。


Q24.Aちゃんとは、もともと仲が良かったんでしょうか。

 家が近所だったから、学校に入学する前から遊んでいた記憶があります。
 小1〜2年はクラスが違ったのですが、3年生になって同じクラスになりました。私も入学前から知ってるAちゃんが同じクラスというのが心強くて、Aちゃんを頼っていた部分はありました。Aちゃんも、いろいろと空気を読みながら私を助けてくれていました。


Q25.Aちゃんは、いじめグループから攻撃されることはありませんでしたか。

 たぶん、なかったと思います。Aちゃん自身、結構人気があったからかもしれません。もしかすると、さねゆきさんのおっしゃる「影のリーダー」かもしれませんね。それと、小4の途中くらいからは、Hさんのリーダーシップも少しずつ陰りが出ていたところもあった気がします。


Q26.あなたが授業で発言するたびに、いちいちHさんに「つけ加え」られていましたね。どのように思いましたか。

 Hさんは、そんなにすごい発言をしたことはなかったと思います。だから、いらない付け加えにしか感じなかったんです。


Q27.小3でランドセルの中の物を傷つけられたことをお母さんに話したとき、何と言ってくれましたか。

 半信半疑な様子ではありましたが、特に怒られませんでした。それから「早う車乗り。」と言って、車でお店に行って文房具などを買い揃えてくれたと思います。


Q28.小3の担任の先生は、何も動いてくれませんでしたか。

 言ってないので、先生は知らないと思います。今に思えば、図鑑の落書きなんて決定的な物証だったと思うんですけどね・・・。


Q29.お母さんから担任の先生に連絡は行ってなかったんでしょうか。

 私は、よく知りません。


Q30.その頃、どのように考えて、自分を励ましていましたか。

 勉強だけは頑張ろうと思っていました。「いい大学行ったら、何か勝手に未来が拓けるのかな」という漠然とした気持ちもあったような気がします。まぁ、これは母の成績・学歴至上主義的発想の影響がかなり強かったのだと思いますが。


Q31.学校に行くのが嫌で嫌でしょうがない朝、どう考えて出かけていたんでしょうか。

 選択肢はありませんでした。私がぐずると、母が車に乗せて校門の中まで入ってしまうんです。1度か2度あったんですが、格好のからかいのネタになりました。きちんと集団登校で学校に通う方が、よっぽどマシだったのです。


Q32.その頃、休憩時間はどんなことをして過ごしていましたか。

 あんまり覚えていません。自由帳に落書きしたりしてたのかな…。まだ、当時はそんなに勉強マニアではありませんでしたので。


Q33.家では、どんなことをしていましたか。

 母のポリシーで、漫画は持っていませんでした。小学○年生の雑誌だけは、買ってもらっていたので、それはよく読んでいました。あと、中2まで習っていたピアノは好きでした。


Q34.笑われたとき、どんな風に考えて耐えていましたか。

 特に何も考えてなかったと思います。ただ、「自分はみんなから笑われる存在なのだ」と思っていました。


Q35.Aちゃんは、「やめてって言わないほうがいいよ。からかわれるから」とアドバイスしてくれましたね。なぜ、Aちゃんは周りに流されず助けてくれたのだと思いますか。

 それは、Aちゃんに聞かないと分からないのですが、やっぱり正義感があったんでしょうね。それと、私がAちゃんを頼りにしていたのを感じて仕方ないと思っていたのかもしれませんね。


Q36.もし、その頃の自分と今の自分の「こころ」が入れ替わったら、どのように行動しますか。

 難しい質問ですね。結局同じ行動しかできないかもしれないですね。Aちゃんに対しては、もっと「ありがとう」と言うと思います。信用できそうだと思えば、学校の先生にも話すかもしれません。
 あと、弁護士に相談とかもしてみるかもしれません。当時は、弁護士っていうと裁判というイメージしかありませんでした。でも、実際には環境調整のための学校・教育委員会との交渉とかもしているんです。今ではそういうことを知っていますので。


Q37.小4でいじめっ子を無視するようになって、からかいは減りましたか。

 あんまり覚えていません。


Q38.いじめっ子を無視してから、クラスメイトと距離を感じるようになりましたね。いじめがあるときと無視をした後では、どちらのほうが楽でしたか。

 どっちもどっちだったような気がします。Aちゃんとは、時々話したりしていたと思います。


Q39.小5で、お父さんは本当の理由を隠して引っ越ししてくれましたね。お父さんは、どういう性格の方ですか。

 父は温厚です。父とは、ほとんどいじめのことを話さなかった気がします。


Q40.小4のころ、家ではどのような様子でしたか。

 あんまり覚えていません。家では、よく勉強をしていたと思います。


Q41.引っ越し先はどれくらい離れていましたか。

 同じ市です。車で40分くらいの距離だったと思います。


Q42.転校したときのことについて教えてください。

 初日は不安でした。母がいつも言っていたことですが、「目立たないようにしよう」と思っていました。


Q43.転校して、最初カン違いされたけどちゃんと説明したら分かってくれたMちゃんは、どういう性格の子でしたか。

 女の子だけど、クラスでも男気があるというか頼られている子でした。


Q44.中学では、何か部活に入りましたか。

 最初は美術部に入ったのですが、仲良しグループ同士で入部した人ばっかりでした。孤立してしまい、すぐ行かなくなりました。


Q45.高校では、仲のいい子はいましたか。

 友だちが居なかったわけではありません。ただ、それなりに距離を保った感じの友だちが数人という程度でした。2人とは、今もどうにか時々の連絡が続いています。
 
 公立ですが、進学校といえばそうだったと思います。
 関連するエピソードとして、高校の音楽の歌のテストは伴奏も生徒がするというルールでした。@誰かに伴奏を頼むか、A自分で弾き語りをするかでした。私には@の勇気がなかったために、必死でAをしました。そのおかげ(?)で、ピアノ弾き語りをマスターしました。

 あと、高2の修学旅行では観光の班を自由に組むことになっていました。私は誰にも声をかけることができず、修学旅行委員を困らせてしまいました。ぎりぎりになって、やっと修学旅行委員と私の会話を聞いていた人が「うち、まだ人数余裕あるから一緒に観光する?」と言ってくれて、なんとか班が決まりました。


Q46.高校のころ、土日はどのように過ごしていましたか。

 勉強していました。私にとっては、数学は勉強兼遊びでしたが。気晴らしにピアノを弾いたりはしていました。趣味は数学とピアノでした。


Q47.「話しかけられるだけで過剰にびっくりする」症状で病院に行ったのは、いつごろですか。

 これは、社会人になってからのことです。弁護士という仕事上、この症状がすごく邪魔だと思いました。


Q48.その症状について、クラスの人に何か言われたことはありますか?

 「そんなに私のこと嫌いなの?」ということは、いろんな人から言われました。違うと言っても、なかなか信じてもらえません。


Q49.京都大学の理学部だったころについて教えてください。

 自宅から通学していました。そのころは、数学をしていてもむなしい気持ちでした。アルバイトでは、模試の採点をしていました。


Q50.趣味で携帯の着メロを作っていて、楽しいと思うのはどんなときですか。

 できあがって、ハーモニーまできれいにつけれた時は結構感動するんです。当時は、まだ誰かにあげるまではしていませんでした。メールに添付できるタイプではなかったですし、あげる相手もいませんでした。もう、本当にただの自己満足でした。ただ、その後4回生くらいになると、ゼミで出会った音楽好きの友人に、作ったメロディーを(ただし、歌詞は秘密で)やみくもに送りつけていました。感想が返ってくると満足したりしていました。


Q51.34キロまで減る前は、何キロでしたか。

 50キロくらいでした。


Q52.どのようにして法学部の人と知り合ったんでしょうか。

 一般教養科目では、いろんな学部の人たちが一緒に授業を受けます。その時です。


Q53.法学部に転部したころについて教えてください。

 うちの大学では、転部はかなり簡単に通るのです。しかも、無試験です。入試の時の点数と学部生としての成績だけで、わりと緩やかに判定してもらえます。勉強では、「法律でいじめられっ子を救うんだ!」というのが、かなりのモチベーションになりました。


Q54.作っていた応援ソングは、だれに向けてのものでしょうか。

 当時のは、受験勉強の応援ソングでした。直接には、自分とか友人です。目標ができて前向きになれたことで、曲調が少し明るくなりました。むしろ、その少し前の時期にかけられたい言葉とかを紡いでいた歌とかは、いじめられっ子応援ソングにもなるものもありそうです。


Q55.今は弁護士になられましたね。もし、昔の自分がクライアントだったら、どのようにして助けますか。
 
 まず、お母さんに対しては「お子さんのことを、もう少し信じてみてください」と言います。本人に対しては「本当に大変だね。一緒に何とかしようね」という話をします。学校を休むかどうかも、よく意思確認をします。「休みたい」ということであれば、お母さんにもそれを伝えると思います。

 そして、「いじめが続くようだったり困ったことがあれば、いつでも連絡をください。それと、できるだけ記録を残すようにしてください」と本人と両親に伝えます。

 それから、学校や教育委員会との間で環境調整をします。小3以降のクラス替えに際しては、U君も含めて同じクラスにならないようにするとか、教室の配置の工夫を要請するとかをすると思います。いじめっ子たちに対する指導を、しっかりとするように要請します。
 それでもいじめが改善されないようであれば、引っ越さなくても転校の手続がとれるように教育委員会とかけ合います


Q56.大津市のいじめ事件について、どのように思いましたか。

 とても、とても、悲しい事件です。こういう事件の報道に接する度に、とても心苦しく感じております。いじめで子どもが命を失うような事件が繰り返されないように、対策をしなければならないと強く感じました。


Q57.今までに、いじめ関係の裁判にたずさわったことはありますか。

 今、上司の弁護士と一緒に、一件の裁判に携わっています。


Q58.もしも今、恩人のAちゃんが会社でいじめられていたり、石拾い班で一緒だった子が苦しんでいることを知ったら、助けますか?

 もちろんです。でも、そういうことがなく幸せにされていることを祈っております。


Q59.いじめられて「自殺しようかな…」と考えている子がいたら、なんと言って励ましますか。
 
 本当に、ひどい目に遭ってるんだね。苦しいよね。だから、死にたくなっちゃったんだね。でも、私はあなたに絶対に死んでほしくない。死なれちゃったら、悲しいし悔しいしやりきれないから。

 今は苦しいばっかりでも、生きてさえいれば、きっとこの先楽しいこともいっぱいあると思うし、あなたにしかできないことだって、ありそうな気がするよ。こんなに苦しい思いをしているあなたの体験っていうのは、実はすごく貴重でもあるし、今後何かに活かせる可能性だってある。それを活かせるのは、あなただけだと思う。ひどいいじめから身を守る方法は、きっといっぱいあるはず。だから、一緒に考えようよ。


Q60.最後に、いじめられている子どもたちに向けて、メッセージをお願いします。

 私も、いじめられっ子でした。内容的には大したことのないいじめだったのかもしれません。それでも私にとっては、いじめられていた結構辛いものでした。その後も思いのほか、いじめによる傷が深かったことを実感させられました。辛いこともたくさんありました。

 だけど、私は今どうにかこうにか司法試験にも受かり、弁護士という職に辿り着くことができました。大変な仕事ですが、とてもやりがいを感じることができています。弁護士として、学校でのいじめ予防の授業をさせていただく機会や、いじめの被害に遭っている子どもたちの人権を守るという仕事をする機会もあります。そういう中では、いじめられたという体験がプラスに活かせることもあります。

 いじめに遭うっていうのは、本当に災難ですよね。災難に遭った時は、何よりも身を守ることが大切です。身を守りさえすれば、あとは人生何とかなるもんです。元いじめられっ子として、心から応援させてください。



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