いじめと戦おう!〜対策と克服法〜
84.小4〜中1男子・・・学校でのいじめ(現在、18歳)

 ご本人からのメール

〔いつごろ?〕
 小4〜中1

〔いじめグループは何人?〕
 男子は典型的なガキ大将や、運動ができてやや性格が荒い人。
 女子も、運動ができて、しかも性格が男子っぽい感じでやや荒い人。


〔悪口の内容〕
 「きもい」、「しね」、くりくり坊主だったので「はげ」。
 広汎性発達障がい(高機能自閉症)を知られると「害児」等々。


〔いじめのくわしい内容〕


【小学校】

<虐められる前>
 幼馴染と育ったので、みんなうちのことをよく理解してくれていました。コミュニケーションをとれないことで、時々トラブルはあっても、いじめにはなりませんでした。しかし、引っ越しで4年生から転校しました。本当に転校なんてしないほうがよかったと今も思っています。


<転校後、いじめが始まる>
 転校してしばらくして、すぐにいじめは始まりました。4年間にもおよぶ長いいじめに発展しました。

 きっかけは、転校と、障がいによる個性的な言動でした(私が障がいを自覚したのは中1ですが)。

 発達障がい児は、普通の子とはちょっと違った個性的な言動が多いんです。好奇な目で見られてしまい、真っ先にいじめのターゲットになりました。でも、これは障がいなのでなかなかどうすることもできません。

 いじめは、みるみるうちにひどくなりました。しかし、障がいのため、状況に合った適切な言葉を出せませんでした。何も言えず、言ったらさらにいじめが悪化する。自分ではもうどうにもならなくなりました。

 4年生の半ばになって、ついに教室に入れなくなりました。異変を感じた隣の4年1組の先生が図書室に誘ってくれました。2人だけで相談しました。その時はまだ、障がいの自覚はありませんでした。なかなか言葉にできないのを頑張って、必死で伝えました。また、理解してくれる友だち等が知らせてくれたりして、学年の問題としていじめが取り上げられました。

 解決するよう、先生といろいろ相談しました。学年やクラスで度々いじめについての集会などを行いました。何とか一時的にでも解決するようにしてもらいました。でも、いじめっ子は結局うわべだけの謝罪でした。


<小学校6年生でさらに深刻化>
 すぐに再発しました。味方のいない時を狙われ、陰湿になりました。そのたびに先生に泣きつき、集会で仲直りする、というのを繰り返しました。

 6年生の時が一番深刻でした。クラスにはたくさんの問題児が集中していました。それまでと比べものにならないくらい、ひどくなりました。悪口や、ものを隠される、勝手に使われる、奪われる、壊されるなどがありました。また、自分のからだに危険が及ぶこともありました。

 3学期がピークで、本当に最後の最後で心が折れそうでした。奉仕作業で、体育館のとびらや、かべにペンキで絵を描くときに、ペンキをおもいっきりぶっかけられました。

 自分だけでなく、学年全体が悲惨でした。いじめグループは、机やいすを壊すこともありました。授業中も脱走したり、うちにいやがらせをしました。

 担任の先生が見つけて指導すると、逆に先生までもが嫌がらせをされました。大混乱に陥り、学級・学年が崩壊しました。ついに、3学期の半ばから卒業まで、授業は毎日すべて学年集会で終わりました。



【中学校】

<中学入学>
 入学時に提出する「学校保健調査票」に、私のことがこう書いてありました。
 「広汎性発達障がい(高機能自閉症)。
 状況が把握できず、マイペース。独り言や鼻歌などが繰り返し出る。落ち着きがなく多動。こだわりが強く物事が最後まで済まないと落ち着かなかったり、自分の方法や考えを変えるのが苦手。何か少しでも失敗すると、失敗した所だけ修正できず、最初から完璧にやり直ししないと落ち着かない。コミュニケーションをとるのも苦手で、人の話したことがすぐ理解できなかったり、人に言葉で伝えられない。うまく伝えられないと、うなったり、へんな声が出てしまう。あるいは身体で訴えようとするが個性的な身振り手振りになる。物事がうまくいかなかったり、友だちから何か言われた時に返せないとすぐ泣いたり、パニックになる」

 通常では書かれないようなことがたくさんあって、クラスの友だちからも不思議がられました。

 それから、じかに友だちに、病気のことを打ち明けるようになりました。

 そして、中学校では、障がいを理解してくれる友だちが、小学校のころとは雲泥の差ともいえるくらい多くできました。それでも、「害児(がいじ)」といった悪口や、物を隠されるなどの嫌がらせは受けましたが…。また、部活動(卓球部)でもわざとピンポン玉を当てられることがありました。しかし、小学校よりは随分ましで、精神的にも落ち着いて対処できました。


<3年生では自然といじめが消失。他の子に対するいじめなどもなく、とてもよい状態だった>
 また、理解してくれる先生が多かったので、ひどくなる前に解決してもらえました。ほとんどトラブルはなくなりました。3年では特に、先生や同級生たちに恵まれました。安定した状態で卒業できました。



<どうやって耐えたか、どうやって克服したか>
 うちは、いじめられたら、先生のところへ真っ先に逃げました。本当に理解してくれている友だちと行くこともありました。逃げ場というのか、自分を守るための場所を確保していました。

 あと、中学1年生のときに考え方を変えました。
 障がいは生まれ持ったものなので治療は限りなく不可能に近いんです。だから、逆に障がいを理解してもらうしかないと思って、みんなに打ち明けました。
 すると、理解してくれる生徒がいて、小学校のころほどひどくなりませんでした。多少は悪口もありましたが…。

 そして、3年生では1・2年生の時よりも、障がいを理解してくれる人がクラスにいたので、みんな進んで歩み寄ってくれました。会話したり、活動に一緒に参加してくれるようになりました。自然とトラブルはなくなりました。

 完全にいじめがなくなったのは「クラス替えで、理解ある生徒と巡りあえたこと」がきっかけだったといえるかもしれません。





たくさん質問させていただきました。ありがとうございました。


Q1.小4のときの転校は、お父さんの仕事の関係でしょうか。

 仕事ではなく、父の再婚がきっかけです。小3で両親が離婚して、それから父が再婚したんです。


Q2.お父さんの職業について教えてください。

 埼玉県内の高校の英語の先生を務めています。


Q3.ご兄弟はいますか。

 兄弟はいます。
 同じ母から生まれた弟がいます。年齢は2つ下です。他にも義理の母から生まれた妹と弟もいます。

 高校2年生の途中で、時々面会もしていた、実の母から高校卒業後の進路について話がありました。母から「大学に進学してほしい」と言われました。しかし、父や義理の母の希望は「就職」でした。

 うちは進学を選択しました。当時高校2年だったうちは、中学2年の弟を置いて、実の母親のもとに行きました。名前も母親の性に変えました。区役所で転入手続きしたその日に、新しい苗字になりました。高校では、名簿の順番が大きく変わってしまう関係で、2年生まで旧姓を名乗ってました。


Q4.小4のときに、相談してくれた隣の組の先生について教えてください。

 男性で、50代はじめくらいでした。学年主任を務めたり、熟練の先生でした。クラスだけでなく、全校の児童に慕われていました。学校中の問題にも気を配る先生だったように思います。5年生に進級した時に、異動で別の小学校に行ってしまいました。


Q5.小4のときの担任の先生について教えてください。

 女性で、30代くらいでした。若かったので、いじめへの対応は隣のクラスの先生と2人で動いていたような感じでした。道徳の授業や学活で、いじめに対応してくれました。


Q6.先生方は、相談したらすぐに動いてくれましたか。

 担任の先生と隣のクラスの先生が、ともに動いてくれました。
 集会などを開いて、少しでも解決するようにしてくれました。でも、今ひとついじめっ子たちへ力が及びませんでした。しばらくすると、また険悪な雰囲気になり、だんだんと再発、エスカレートというのをずっと卒業まで繰り返しました。

 初期の嫌がらせは、このような感じでした。
 給食の配膳の時に、牛乳を誰が運ぶかじゃんけんで決めるんです。クラス全員(40人)の牛乳なので、重いです。「後出しした」などと、理不尽な言いがかりをつけられました。
 毎日やらされました。重い牛乳を給食室から教室のある2階とか、3階まで1人で運びました。手が真っ赤になって痛く、何分もかかりました。その間、みんなは遊んでいました。
 給食が終われば、みんなはすぐにどこかへ遊びに行ってしまいます。しかし、うちは1人で空の牛乳パックを給食室に戻さなければなりません。
 ほかにも、いじめっ子が給食当番をすると、「一人 ○個」とか個数が決まっている物で、うちだけ勝手に減らされて、いじめっ子の取り分にされました。あるいは1個だけのものでも勝手に切り刻まれて、量を少なくされたりして、いじめっ子の取り分にされました。それでうちが困ると、みんなからかってきたり、あざ笑ったりして本当につらい給食の時間でした。


Q7.小6の、学級崩壊したときの担任の先生について教えてください。

 男性で、50代そこそこでした。
 それまでは、ずっと2年生や3年生など穏やかな低学年で仕事してきた方です。問題が起きるような学年を受け持つのも久しぶりな感じでした。
 また、優しいけど、ちょっと気の弱い感じだったので、悪い奴らには、とことん馬鹿にされていました。


Q8.学年崩壊していた小6のときの学校の対応について教えてください。

 問題の多いクラスで、担任の先生も対応しきれないようでした。そこで、隣のクラス(1組)の学年主任の、50代近くの普段は優しいけれども、泣く子も黙るような怖い女の先生が度々監視しに来ていました。合同授業になることもありました。
 3学期に、どうしようもないくらいにひどくなった時には授業を中止して、学年集会や、いじめについての集会を1日じゅうやりました。

 その女性の先生は、まるで、昔放送された、小学校を舞台にしたドラマの、「女王の教室」の、阿久津真矢みたいな感じの先生でした。悪いことには心を鬼にして当たって行き、言葉で生徒を突き放す事もある厳しい先生でした。
 とはいえ、ドラマほど行き過ぎた指導をするような先生ではありませんでした。さすがにあれと同じことを現場で行ったら、即訴えられる時代です(^_^;) 
 普段怒らなければ、ドラマの最終回の最後に微笑んでいる阿久津真矢先生と、おんなじような、笑顔の優しい先生でした。不思議ですが、容貌もぱっと見似ていました。


Q9.ご両親には相談しましたか。

 時々、相談しました。しかし、「相手が圧倒的に悪いけど、いじめられる自分にも問題があるんじゃないのか」と、責められることもありました。でも、うちはどこに問題があるのか、よくわからず(当時はまだ自分の障がいもわからなかった)、ひたすら耐えることになりました。


Q10.ペンキをぶっかけられたときに、お母さんは何と言っていましたか。

 義理の母は「ペンキをぶっかけた子と、その親と話がしたいので、電話をかけさせろ」と言い、仕方なく電話をかけました。うちも、その友だちを電話で抗議して、義理の母も相手の親と話しました。

 でも、学校の先生などを仲介して、学校等で話し合ったが良かったのかもしれません。さらに悪化しました。学年の生徒全員が、うちを避けてわざと遠回りしたり、うちの持ち物を壊すようにもなりました。

 いじめっ子たちはそのくらいになると、授業中でも荒れました。いじめとは関係なしに、教室の机などの備品を壊したり、うちをいじめたり、他の生徒の邪魔をしたり、教室から逃げ出したり…。散々でした。

 しかも、6年2組の男の先生は、上記のように、優しい反面ちょっと気の弱い感じの先生だったので、そのような悪い奴らを注意しても、聞く耳を持たれませんでした。とことん馬鹿にされ、先生までもがいじめられていました。


Q11.地獄のような小6の三学期、折れそうな心をどのように考えて支えていましたか。

 あと何日で小学校が卒業できる、とカレンダーで数えました。いじめっこたちから解放され、中学校で人間関係がリセットされるまであと何日だ、とそういう思いでいっぱいでした。


Q12.小6のとき、休み時間はどのようにして過ごしていましたか。

 休み時間はもう本当に孤独でした。信頼できる友だちにしか心を開きませんでした。ずっと本ばかり読んで、本の世界に閉じこもっていました。


Q13.家では、どのように過ごしていましたか。

 家でも、もう心が疲れてしまっていました。宿題をやるだけ、塾から帰ってくるだけで精一杯でした。その後は、布団をかぶって、家でも家族(特に大人)に怯えていました。布団の中で本を読んだりしました。

 あの頃は、いじめで心がボロボロになっていたと思います。頭痛や腹痛、吐き気や、食欲不振、下痢、体重が減ったり、胸が痛くなったりしました。身体が悲鳴を上げていました。さらにひどくなると、疲れて寝込むのに、何度も起きました。いじめの夢で起きることもありました。

 とにかくいつも不安で緊張していて、パニック障害の発作のようでした。自分が死んでしまいそうな感じがして苦しくなり、全身がだるくなりました。集中力もなくなり、生きていくのがつらくなりました。もうだめだと衝動的に自殺するんじゃないかと思うようにもなりました。

 それでも、つらいけど学校に行き続けました。親は、学校を休ませてくれませんでした。
 そういえば、6年生の時、身体測定の時に体重が減っていたうちは、隣の1組のあの女の先生から、「体重が減っているけど、大丈夫?何かあったの?」と聞かれました。ひょっとしたら、うちがいじめを受けているというサインを感じていたかもしれません。


Q14.「自殺しないで生き延びられたのは、これのおかげ」というようなものがあったら、教えてください。

 ずっと本の世界に閉じこもっていたのが一番大きかったと思います。
 那須正幹のズッコケ三人組シリーズに、はまっていました。喧嘩したり、先生に怒られたりしながらも、いじめが全くない、ズッコケ三人組の教室がとても、羨ましかったのです。

 家でも苦しんでいました。いじめだけでもつらいのに、親は障がいを認めず、普通の子として育てようと叱責しました。うちは年齢相応の振る舞いができないんです。それで自殺願望がこみ上げてくるんですが、親は、自殺願望さえも許しませんでした。そんな事を言ったら、すぐにどつきまわされ、しばかれました。

 学校も家もつらかったです。身体も悲鳴を上げていて、とにかく生きていけないと思いました。塾の帰り道、あえて夜遅くまで家に戻りませんでした。そして、「電車に轢かれちゃったら」とか、「交通事故にあったら」とか、「ビルやマンション・歩道橋から落っこちたら」などと考えていました。

 でも、最期自分はどうなってしまうのかという恐怖で自殺を踏みとどまりました。


Q15.自分に障がいがあると知ったとき、どのように思いましたか。

 中学1年まで、発達の先生のところに行く理由を教わっていませんでした。初めてその答えを自力で知りました。すぐに図書館で調べました。それまで、なぜ親から叱責されるのか、奇妙に思われるのか全くわかりませんでした。

 調べて分かりました。自分ができないのは、努力が足りないとか、心が弱いからとかではなかったんです。自分の脳が生まれつき、障がいを持っているからだったんです。これからは、逆にみんなに理解を求めようと思いました。

 また、そのような欠点は、逆に自分の個性だと思えるようになりました。障がいは大変なハンデですが、欠点を長所として活かそうと思いました。例えば、自閉症などに多い、こだわりもいい方向に考えれば、好きなことには非常に集中できます。


Q16.障がいを打ち明けようか悩んでいる方がいたら、打ち明けることを勧めますか。

 勧めます。なんで、いじわるするのか聞いて、「それは、〇〇という障がいがあるからだ」と打ち明けるといいと思います。

 島根県に住んでおられる、高機能自閉症の高校2年生「ひいちゃん」も障がいを打ち明けたら、友だちが増えたそうです。でも、逆にうちと同じように、友だちは増えたものの、「害児」と言われたり、ちょっとした意地悪をされる事もあったそうです。

 ひいちゃんは、小学校6年生の時、浜田市の人権作文コンクールの優秀作品「ぼくの人生こんぺいとう」を書かれました。
 「発達障害がある人たちへ
 あなたのところでいじめはありますか?いじめは自分のせいと思っていませんか?決してそうではありません。からかう方が悪いのです。まだみんなに発達障害だと伝えていないのなら、朝か帰りにみんなに告白しよう!きっと友だちが増えるかもしれないよ。
 自殺なんかするよりも、今、自分のいいことを探してみよう。時間は味方、そして、発達障害は天からのプレゼントだ! プレゼントだからいい物に決まっているじゃないか!

 ひいちゃんのことを知ってから、やっぱりうちの決断は間違いではなかったにちがいないと、感じました。また、ひいちゃんのお父さんが作られている「ひいちゃんにっき」も、お気に入りのホームページです。

 ひいちゃんのお父さんは、発達障がいを持った子を「こんぺいとうキッズ」と呼んでいます。色も形もいろいろで、長所短所がいっぱいあるけれど、そこがまた魅力的。しかも、こんぺいとうのようにキラキラした天使のような笑顔がとても可愛いから、名づけたそうです。また、自閉スペクトラム症のことをパステルゾーンと言い、その子たちには虹のようなカラフルライフがあるんだと、ひいちゃんのお父さんは言っています。

 ひいちゃんは本当にすごい子です。自分の障がいを題材にした作文で、小学校6年で浜田市の人権作文優秀賞受賞、高校入学後も作文コンクールで優秀な成績を収めました。今年の全国高等学校総合文化祭「いばらき総文」にも「前向きに生きる」など、多くの優秀作品を作られています。

 障がいを打ち明けるのは、いいことだと思います。でも、意地悪をされるリスクもあります。そこが難しいなと感じました。


Q17.中学で、楽しかったことを教えてください。部活などはされていたんでしょうか。

 卓球部に入っていました。
 うちは動きがぎこちなかったりして、一番弱かったです。でも、中学校は300人程度しかいなくて、卓球部も同級生は5人くらいでした。そのため、みんな試合に出られました。市内で一番弱くて、試合で勝つことはみんなほとんどありませんでした。時々、ピンポン球をわざと当てられるようないじわるをされることもありました。

 何よりも楽しかったことは、委員会活動でした。
 うちは、昔から、オーディオやビデオ機器等に興味を持っていたんです。小学生の時も放送委員でしたが、中学でさらに没頭しました。3年間ずっと放送委員で、3年生では委員長を務めました。毎日の放送や、いろんな集会で放送機材をセッティングしました。
 一番大きな達成感があったのは、中3の体育大会です。校庭で初めから終わりまで、放送委員の委員長として携わっていました。放送委員会が生きがいでした。また、高校でも放送委員でした。


Q18.いじめっ子だった連中は、中学ではどのような様子でしたか。

 小学校のいじめっ子の一部は、中学でもしばらくの間、意地悪を仕掛けてきました。書き初めの練習で書いている途中、落書きされたりすることもありました。でも、負けたくなかったので、授業中は捨てて、自宅で毎晩練習しました。

 また、うちに意地悪をしなくなった連中も、時々、先生に怒られるような悪さ(机や椅子を好きなように改造したりするとか)をしたりしてました。でも、小学校の頃とは変わって、おとなしくなる生徒や、うちに協力的になる生徒もいました。

 いじめっ子だった連中も、中学ではだいぶ成長して、変わったように思いました。小学校のように、暴れて、窓やドアのガラスを割ったりするような事もめったに起こらなくなりました。ちょっとやんちゃで目立ってはいましたが、だいぶみんな変わりました。

 3年生になったときは、もういじめもほとんどなくなりました。中1の時は急性腎炎になったり、中3の時は盲腸になったり、そして、アレルギーで花粉症や、喘息持ちであるなど、身体が弱かったんですが、心配してくれる子が多くなりました。

 体育大会でも、一致団結してみんな頑張り、学年優勝を果たしました。体育大会の集合写真の撮影では、放送委員で活躍してなかったうちは、なんと、クラスのみんなから推薦されて、クラスの応援旗の旗持ちをさせてくれました。それが、卒業アルバムに掲載されていました。
 あの時本当に、いじめがなくなった、みんなが笑顔なクラスになったなと思えました。そして、旗持ちを推してもらえて、みんながついにうちのことを認めてくれたんだと思いました。


Q19.中学での先生方はどうでしたか。良い先生が多かったんでしょうか。

 障がいのあるうちの良い所をいっぱい発見させてくれる先生方が多くいました。
 中学3年生の時のことです。急にお腹が痛くなって倒れた時、友だちが肩を貸してくれました。職員室に行ったら、たくさんの先生が「大丈夫?」と心配してくれました。翌日、盲腸だと分かり、薬で散らしました。生徒のみんな、一人ひとりを心配し、見守ってくれていました。

 当時、中学校には特支学級(特別支援学級)がなかったので、普通学級にいるしかなかったのです。それでも、悩みごとは、すぐ相談できました。特別支援に近いような支援をしてくれました。


Q20.良い雰囲気だった中3のときの担任の先生はどういう方でしたか。

 卓球部と放送委員会の顧問でもありました。そのため、特にうちは長く、その先生と一緒にいました。オーディオ機器など趣味も同じで、放課後も話をしました。家よりも、その先生といるほうが楽しかったです。

 同級生のみんなからも、先生とうちは父と子みたいだと羨ましがられていました。また、中学校卒業後も、先生の家まで自転車で行って、趣味の話をしていました。しかし、今はそういう事もできなくなったので、ちょっと残念です。あの先生が恋しいです。


Q21.高校での様子について教えてください。

 入学当初は時々、意地悪やちょっかいをされることはありました。しかし、部活動で自分の長所をフルに活かすことができたので、ちょっかいをしてくる生徒もいなくなりました。担任の先生も3年間同じで、計らってくれたのかもしれません。その先生も、いいところをたくさん見つけて伸ばしてくれました。

 新聞部でした。顧問の先生も良い人でした。制作にもこだわりました。自分の障がいの欠点である、こだわりが強いところを活かせました。

 また、2年からは学級新聞の制作も自主的にしました。そして、席替えごとに座席表を作ることも任されました。うちが制作した学級新聞や座席表は、クラスや学年じゅうで評判となり、写メを撮られたりするくらい有名になりました。

 クラス内でいじわるされていたりしても、自分の長所を活かせるような部活動に入っていれば学校に貢献できます。そして、有名になれば、意地悪やちょっかいを出されることも少なくなると思います。


Q22.いじめのことを先生に相談するのに、勇気が要りましたか。

 先生に相談するのは、勇気が要りました。チクったと思われて、どんなことをされるかわからないので、覚悟が必要でした。


Q23.なかなか先生に相談できない子にアドバイスをください。

 まずは話を聞くだけ聞いてもらい、どんな被害があったのか伝えてください。その後、直接いじめっこを叱りつけるのではなく、クラスや学年で、いじめについての集会を開いてもらってください。

 他にもいじめがあったり、いじめに発展する恐れのある意地悪があるかもしれません。学年の問題として全員で考えて、いじめっ子といじめられっ子がともに解決していけるようにしてもらうといいです。

 できれば、親も授業参観などの機会を利用して考えさせてほしい。
 そして、最後に関わった全員の子とその親、先生でじっくりと考えられるように要望してほしいと思います。不安なら、児童相談所や教育委員会も活用して、相談員さんに参加してもらうこともお願いしてみてください。


Q24.良い先生と頼りにならない先生の見分け方を教えてください。

 1つ目、ちゃんと目を合わせて聴いてくれているか。
 2つ目、ちゃんと手帳などに、被害の内容を記録してくれているか。
 3つ目、相談者を責めないか。

 「確かにいじめるほうが悪いけど、でも、あなたにもこういう弱点があったんじゃないかな?」と、すでに傷ついている心に障るようなことを平気で言う先生かどうか。

 そのようなことを先生が、たとえうっかりでも言うと、いじめで傷ついた心を修復できなくなります。先にいじめという形で攻撃してきた加害者のほうが、ずっと卑劣です。


Q25.もし、担任の先生が頼りにならない場合、あなたならどうしますか。

 隣のクラスの先生や、学年主任、前の担任の先生とか、保健室の先生などなど…に相談します。最悪、生徒指導の先生や、教務主任、教頭先生、校長先生など、とにかく馴染みのある先生に次々と相談します。


Q26.「落ち着ける場所」について教えてください。

 小学校時代は保健室や、鶏やうさぎたちと戯れるようなところでした。また、弟は鼻血を出しやすい子だったので、一緒に保健室で過ごしたりしました。

 中学校時代は放送委員だったので、辛い時は放送室にこもっていました。狭い部屋に1人だけというのは、ほんとうに心が落ち着きました。
 あとは、保健室通いになったりもしました。保健室の先生とは、体が弱いこともあって、よく話をしていました。


Q27.「理解ある生徒との巡り合わせがよかった」ということですが、どんな生徒でしたか。

 別の小学校から来た生徒もいれば、同じ小学校の生徒もいました。
 中学3年では、みんなが理解を示してくれるようになりました。過去にいじめた生徒もほとんどいなくて、本当に良かったです。


Q28.先生は、障がいのことをみんなに説明してくれましたか。

 説明してくれました。
 自分でも打ち明けていましたが、先生にも説明するようにお願いしていました。


Q29.現在について教えてください。

 大学1年生です。大学といっても、職業能力開発大学校です。電気電子系の学科に在籍しています。卒業したら、就職するか、応用過程の方に再入学するか、ちょっと迷っています。もうすぐ決めなければなりません^^;


Q30.将来、こんなことがしたい!というものがありましたら、教えてください。

 定職に就きたいです。何事も無く、1日1日を無事に自立して生きていければ、それが人生最大の幸せなのかもしれません。


Q31.今、燃えていること、夢中になっていることがありましたら、教えてください。

 中学時代から続いている、趣味のオーディオ機器に夢中になっています。壊れかけの機器を修理して、好きな曲やビデオを鑑賞するのが好きです。ビデオ撮影もしています。


Q32.「あのとき、自殺しないでよかった!」と思えるような瞬間は、どんなときですか。

 中学では心に残る思い出を作れました。本当に小学生の時、自殺しなくてよかったと思います。

 もし、小学生で人生に幕を下ろしてしまっていたら…。自分の障がいを知ることもありませんでした。障がいを理解してくれる子や先生がたくさんいるという事も分かりませんでした。放送委員の顧問や、卓球部の顧問、2〜3年の担任の先生にも出会えませんでした。中学3年のクラスメートにも会えませんでした。

 もし、自殺していたら…。いつかやってくるいい思い出を全く味わえずに、どこかへ逝ってしまうんだ…と思うと、今では本当にしなくてよかったと思います。


Q33.同じ障がいの子たちにアドバイスをお願いします。

・うちと同じような、広汎性発達障がい(自閉症、高機能自閉症、注意欠陥多動症
、アスペルガー障がいなど)で苦しんでいる子たちへ。

 もしも、学校で苦しんでいるのなら、親や先生に相談してください。障がいのことや、みんなと友だちになりたいこと、みんなの支えが必要なんだということを、先生と一緒に説明するといいと思います。
 でも、「害児」だとか言って、意地悪をする子もいるかもしれません。そのような時は、先生に相談しましょう。また、どういう風に打ち明けるか、考えましょう。

 また、このような障がいを持つ子は会話がうまくいかない事が多いです。まわりの人に、正面を向いて、目を合わせて、ゆっくり、はっきりと、わかりやすく話をしてもらうようにお願いしましょう。また、じっくりと聴いてもらえるようにお願いしましょう。筆談にもチャレンジしてみてください。

 たとえ、今は苦しくても、持ち前の純粋な心で頑張りましょう。パステルカラーのような、鮮やかな色とりどりのカラフルライフはすぐにやってくるはずです。ぜひ、負けないで頑張ってください。


Q34.障がいのことでうまくいかない時、どのように考えていますか。

 欠点は、自分の個性だと思うことにしています。それが自分の「こんぺいとう」なんだと思って、長所として捉えます。今も、欠点を活かそうと頑張っています。


Q35.自分を助けてくれた友だちのその後など、知っていたら教えてください。

 うちも引っ越しをしたりして離れてしまったので、分かりません。無事に高校を卒業して、頑張っているだろうと思いたいです。


Q36.最後に、自殺を考えている子、いじめで苦しんでいる子たちに向けて、メッセージをお願いします。

・いじめで、自殺を考えている子たちへ。
 自分だけの生きがいになるようなことを探しましょう。例えば、本のなかのファンタジーの世界に閉じこもってみるとか、いろいろあると思います。


・衝動的に自殺してしまいそうな子たちへ。
 うちも、衝動的に、電車に轢かれちゃったらとか、交通事故にあってしまったらとか、高いところから落っこちてしまったらとか、いろいろな考えが湧き上がって止まらなくなってしまったりもしました。でも、そんなことをしたら自分はどうなってしまうのかと考えて、実行しませんでした。
 そして、家族はどんなに悲しむか、計り知れないくらいむごいことだと思います。だから、自殺だけは、どんなに生きていくのがつらくても、しないでほしいと思います。


・いじめっ子たちや、いじめられている子がいても救い出す勇気がなかったり、怖くて言いなりになっている子たちへ
 いじめられている子は、本当に苦しんでいます。いじめがどれほど傷つけるか、真剣に考えてください。心が修復できないほど傷つき、二度と戻せなくなります。
 いじめという「犯罪」は、ちょっと犯したくらいでは、警察のお世話にはならないでしょう。 しかし、逃げることができたとしても、「犯罪者」は一生良心の呵責(かしゃく)に苦しみます。まわりの人間から見放されます。死ぬまで孤独です。いいことは一つもありません。幸せになんかなれません!
 いじめを止められないみなさんも、真剣に考えてください。早く、強く働きかけましょう。何もしないというのも、いじめっ子たちと「同罪」なのです。



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