いじめと戦おう!〜対策と克服法〜
81.中3男子・・・学校でのいじめ(現在、46歳)

 この克服体験談を投稿してくださった加倉井さんは、中学のときいじめのために不登校になりました。
 現在は、高校で道徳の非常勤講師をされながら、不登校児のためのフリースクールや学習塾を運営されています。たくさんの子どもたちに慕われています。毎日誰かしら話しをしに、加倉井さんの元へ訪れます。

【ブログ】 たこ焼き頭:加倉井義忠の言いたい放題
【フェイスブック】 加倉井義忠


〔いじめのくわしい内容〕
●クラスから受けた傷
悪口…臭い・デブ・短足・気持ち悪い・死ねと張り紙・笑い者・仲間はずれ・ノートや教科書を切られる・被害者なのに加害者に仕立て上げられる・教師に助けを求めると「チクリ魔」と呼ばれ、もっとひどいことになる

暴力…殴る・飛び蹴り・画鋲を刺される・カッターで切られる・ホッチキスを打たれる・石をぶつけられる・トイレ使用中に水をかけられる・恐喝

持ち物…上履きを便器に流される・チョークで制服を汚される・自転車を壊される・カバンや持ち物にいたずら・隠される・給食を奪われる・技術の授業での菊栽培で苗を潰される・美術の作品を壊される

その他…家庭科で調理実習の班全員の食材を持って来させられる・駐輪場に自転車を入れてもらえない


●教師から受けた傷
  「君にも問題があるからやられる!」と担任の言葉。ただしどこが悪いのか全く指導されない。母親と担任の意見が合わなかった翌日に、担任から「加倉井の母親は頭がおかしいのか?」といきなり怒鳴られた。周囲は意味も分からず唖然としていた。

  久しぶりに勇気を出して授業に出たが、不登校という呼び名もない時代、登校拒否児という問題児として扱われた。英語の教科書の回し読みの際に、毎回の授業で順番をあからさまに飛ばされる。「なぜですか?」と問うと、「好き勝手やって学校に来ない人は授業に出なくていいです」と英語教師から。故意にしていたのかとショックだった。

 好きで学校に行かないのではない。避難であえて登校しなかった。あのまま登校していたら、自分が壊れるか・・・刑事事件を起こすかのどちらかしかなかった。だからまた登校をやめた。

  卒業間近に机の整理に行くと、通知表が机の中にただ入れられていた。通知表の内容を同級生が読んで知っていた。これも嘲笑の原因になっり登校するなり馬鹿にされた。職員室に抗議に行くと、担任から大声で「スランプの加倉井君登場!」と笑い者にされた。他の先生らもお茶をすすりながらただ笑っていた。担任から皮肉たっぷりに「親が親なら息子も息子だね!」と呟かれた。


●部活で受けた傷
  小学校から剣道の道場に通っていた。中学になれば剣道部に入るのが当たり前とされていた。音楽好きの○○君に誘われて、見学に行ったのが先輩たちの逆鱗に触れた。

 剣道部以外を見に行っただけで裏切り者のレッテル。部室に連れ込まれ、先輩や同級生から土下座強要、竹刀・蹴り・ビンタで暴行。その後も根性入れと称する暴行が続き退部した。

  週一回のクラブ活動も剣道クラブに強制で入れられていた。剣道部は退部したが、退部した嫌がらせに着替え用の部室を使わせてもらえず、体育館裏の木陰で剣道着に着替えるしかなかった。

 道場でも裏切り者として、わざと防具のないところを全員で代わる代わる竹刀で叩かれたり、蹴られたり・・・道場に「武道の正義」はなく、ほとんどリンチだった。

 道場もやめるとき「根性なし!」と何も知らない道場主催者(別公立学校の教員)に怒られ、「理由は?」と怒鳴られた。いじめの中心は、部活の部長であり、道場主催者の息子。報復を恐れて何も言えずにやめた。


★当時考えていたこと
 加害者と教師を殺すこと。一人一人の家を住所から探して確認した。何度も夜中にその家々の前まで行ったことがある。放火して殺してやろうかと迷ったが、無関係の人を巻き込まない方法が見つからず、最後の決断だけができなかった。



【いじめた人たちも後悔していたと知った】
  一年遅れて入った高校の帰宅途中の列車の中で、中学時代の部活の先輩Wが謝ってきました。大学に入り、中学のときの部活の先輩(部長K)と廊下でばったり再会しました。その際も中学時代のことを謝ってくれました。このことも私には大きな意味ある出来事でした。

  私も昔のことで苦しんでいましたが、先輩らも忘れていなかったし、やったことが悪いことだと理解してくれていたんだと知れたことも大きかったです。

  ただ40歳まで、中学校には近づけませんでした。校舎や体育館、部室、職員室を見ただけで、忘れてしまっている嫌なことを思い出すかもしれないという恐怖がありました。中学時代の同級生とも極力会わないようにしていました。
 優しくしてくれた友人もいなかったわけではありませんが、同じ中学というだけで思い出してしまいますから、私の方から距離をとっていました。



【不登校だった中学時代】
  家庭不和(父親は酒乱でDV・母親は学歴コンプレックス)もあり、中学校ではイジメですから、人生に希望が持てませんでした。自殺未遂もしました。(でも死ぬほどの勇気もありませんでした。)
 また、人格が壊れる前に早めに避難(退部・不登校)したことも良かったですし、夜7時から午前2時まで毎晩プチ家出して、家庭不和からも避難していたことも私には良かったのでしょう。田舎だったので田んぼのあぜ道で星を見て時間を潰していました。(あとは家探しで時間つぶし)

  高校には進学できず、予備校通いとなりました。また予備校に通う列車の中でも(皆は高校の制服姿、私は私服です。)嘲笑にもあいました。中卒で浪人したのは、その中学で私だけでしたから、からかいの対象でした。



【たった一人、支えてくれた友人】
  でも、たった一人だけ、私を応援してくれた友人がいました!今は有名病院の医局長である医学博士の○○君!毎朝列車の中で当時の茨城新聞のラジオ受験講座を切り抜いてきて「俺もこれで頑張った!加倉井もがんばれ!」って応援してくれました。

  彼は県内トップの水戸一高に進学しました。高校でも多くの友人もいたでしょう。私を無視しても良かったと思います。落ちこぼれの私を励ましても、秀才の彼には何のプラスにもならないはずなのに、応援してくれた人がいてくれたことは大きかったです。

  ただ、このあと父親の酒乱とDVで私の精神状態が最悪、とにかく同じ中学の人間とは極力会わないように努力していました。最後に彼にあったのは、18歳の時(彼のお母さんの葬式)でした。私が彼のそばにいることも気が引けました。落ちこぼれの私では、彼の優秀な人生の妨げになるような気がしたんです。

  それで、音信不通になってしまい、彼もどのように医者として活動しているのかがわからなくなっていましたが、去年フェイスブックで彼と再会しました。あさって29年ぶりに彼と再会できます。それで今までの感謝の気持ちを伝えることができます。きっと私・・・泣いてしまうと思います。
  ↓
 「29年ぶりに会えました。やっと直接、感謝を伝えることができました。本人の前では流石に…でも帰宅してから家族の前で大泣きしました」


 ※茨城新聞のラジオ受験講座
当時の受験講座記事1  当時の受験講座記事2
 体験談当時の記事

 当時の茨城放送では、「受験ラジオ講座」というコーナーが平日に連載されていました。新聞一面ではなく、片隅に縦15センチ横20センチくらい?もう少し小さかったかもしれませんが・・・そこには小問題が数問だけ記載されていました。月曜日が国語、火曜日が数学、水曜日が理科、木曜日が社会、金曜日が英語だとしたら、毎朝の電車の中で、その日の分(解説は夜にラジオ放送ですから)を切り抜いて毎朝の電車の中で、渡してくれていました。

 その問題の答えと解説がラジオで10分〜15分くらいだったと思いますが、流されていました。どこの団体の主催で行われていたのかは、申し訳ありません。よくわかりませんが、公立の中学校の先生たちが、毎回担当して解説していました。

 1980年代は今のように塾があまりない時代でしたし、自分の中学校の先生の声がラジオから流れてくるのは、結構新鮮でした。





【生徒たちに、いじめのことを思い切って話した】
  数年前までは、イジメられたことは家族にも、生徒たちにも話すことはできませんでした。逆に虚勢を張って中学時代はヤンキーだったなんて嘘ついていました。(*゜▽゜*)

 ところが、フリースクールや塾の子達がイジメで苦しむこともあり、嘘をついていられなくなりました。ある生徒から「経験していない加倉井先生には、私の辛さがわからないでしょ?」て泣き叫ばれました。これが大きなきっかけでした。
 勇気を総動員して「俺もいじめられたことがある・・・」と告白したことで、彼らとより近い存在となれたことは大きかったです。

 また高校でテストや感想文を書いてもらうと「私も被害者になったことがあります。」「加害者でした。後悔してます。」「助けられなかったことが残念です。」「もっと勇気があれば・・・」と、私が告白するたびに、生徒たちから悩み苦しみ、そして嘆きの告白が寄せられるようになりました。

  また逆に生徒たちに励まされたこともありました。「先生はすごい!イジメられたことをはっきり人に言っている。先生は強い人です。私も子供たちの前で、自分のいじめ体験を話せる教師になる!親になる!」と何人にも励まされたりしました。

  あと大きかったのが、宮本延春先生の本との出会いでした。私よりも長期でひどいいじめにあっていたのに、講演でも本でもいじめを語られている姿に、自分が恥ずかしくなり反省しました。大きな自問自答が始まりました。宮本先生とも最近フェイスブックでお友達になれました。

  これまでの活動の中で、いじめが原因でひどい心の病気に苦しむ若者達との出会いも大きかったです。
  加害者に対して 殺意を抱いている怖い男の子S君と出会いました。体中から殺気をだしており、背筋が凍る思いも何度もしました。クラス中からいじめられ、家族にも理解されず、恨みの塊になっていました。「殺気」がどういうものかがその時初めて知りました。毎日、生々しい殺し方ばかり考え、説明してくれる子でした。

  19歳女性のYちゃんは、3ミリ間隔に指先から肩までリストカットだらけ、摂食障害、対人恐怖症など・・・一日に精神安定剤は50錠以上。いじめに耐え切れず15歳で首吊り自殺、亡くなる寸前で家族に助けられましたが、24時間監視体制の病院に3年間入院。19歳から高校に向けて一緒に勉強しました。

  いじめが原因で重度の精神病に苦しむ24歳の女性は、中学時代のいじめの加害者が母親となり、赤ちゃんを連れて幸せそうな姿をホームセンターで目撃して逆上。「やっと見つけたよ!」が最後の連絡。念願の復讐だと店内の包丁で・・・襲いかかる寸前にベビーカーの赤ちゃんの笑顔で冷静に「この子には罪はない」・・・まさに間一髪9年越しの殺人未遂でした。

  そんな出会いもあり、黙っていることが逆に罪だと思えるようになりました。いじめ体験を話すことが、最近は私の存在価値であり使命だと勝手に思いこんでいます。(*゜▽゜*)

 そう思えると、自分の苦しかった中学時代のいじめ体験も、これからの若者のために無駄ではなかったと受容できるようになりました。



【これからのチャレンジ】
 玉聞様のプロフィールを見たときに、同じ茨城出身者だと嬉しくなりました。 (*゜▽゜*)

 玉聞様の言葉を使わさせていただきますが、「成功:とりあえず生きのびた」→ 「大成功:今、幸せだ」→ 「真の成功:誰かを助けている」。段階を踏んで30年かかりましたが、ホントにようやくです。でも今でも、一部を除いて中学のクラスメートとは会う気は全くありません。
 もっと早い段階で、様々な出会いをしていれば、そして私にもっともっと勇気があれば、違う活動もできたかと思っています。

  最近は持病もあったり、50歳が近づいてきたこともあって、自分に出来ることで何かしなければ・・・ということを切に感じるようになりました。

  それで、まず2014年度の新しいチャレンジは、来月出す塾の新聞チラシの裏側に、「相談できる場所がある」ことを告知しようと思います。その文章にも「いじめと戦おう!」から学んだことを使わせていただきました。まもなく印刷が終わって届く予定です。

  その次のチャレンジは、各お店や人の目のつくところに、「相談できる場所」があることを貼らせていただこうかなと思います。これは、まだ形になっていません。これから言葉を考え、店舗用のチラシを作っていこうかな?と思っています。


チラシ



【今の職業について】
  私はもともと熱心な仏教徒の家に生まれ育ちました。でも現在はキリスト教:プロテスタントの牧師です。その関係で母校の道徳(聖書の時間と呼ばれています)をお願いされ、非常勤で担当しています。

  私は教会をもたずに活動している牧師です。教会や宗教団体に属していると、信徒増加のために利用される可能性が大ですが、私は宗教活動や信徒増加のために、「不登校やいじめ」を利用されるのが大嫌いです。
 不登校経験者・いじめ被害者の意地みたいなものなのかもしれません。そういう意味では牧師としては、はみ出し者で落ちこぼれでしょうね。

  また、本来の牧師の活動から外れているので、批判にもあいました。いじめられっ子の性分なんでしょう。「嫌がらせをしてくる相手を無視する・避ける傾向」は、もう本能のようなものです。

  これまでにも様々な宗教団体から、誘いやノウハウを教えて欲しいとかのアプローチはありましたが、すべて断ってきました。動機が、純粋に子供たちを助けたいわけではないようなので。
  聖書に「隣人を自分のように愛しなさい」とう言葉があります。私の活動の中心は、この一言です。私と同じことで苦しむ人々は隣人です。(イジメ・不登校・おちこぼれ・DVなど)で苦しんでいる人々を、ただサポートしたいだけです。非力ですが・・・



【家族について】
  妻は、高校・大学の後輩です。教師の娘です。不登校歴3年です。中学3年間で出席日数は1年ぐらいしかありません。イジメにはあいませんでしたが、登校したくても朝になれば発熱・腹痛・体調不良で登校できずにいました。高校に進学してからは、合唱団の部長で、風邪以外では休んだことはなく、今年45歳になりますが、今だに中学校になぜ登校できなかったのか謎だと言っています。

  娘(17歳)・・・不登校同士の子供です。娘にとっては、生まれた時から不登校の子達に囲まれて育ちました。一時期は、不登校の子が下宿していたこともあります。一人っ子ですが、お兄ちゃんお姉ちゃんに囲まれて育ちました。そのおかげで社交的になりました。(社交的し過ぎて親が困惑するときもあります(^_^;)) 彼女の心の中では、「学校に行く人生」と「行かない人生」があります。しかし、彼女が選んだ人生は「行く人生」です。
 娘も小学校4年の時にいじめにあいました。不思議なことに、我が家にだけ学校から連絡が来ましたが、加害者宅には連絡をしていませんでした。これでは解決にはならないでしょう。
 娘には私と同じことで苦しんで欲しくないので、報告と苦情を相手宅に言いに行きましたが・・・別の家でした。なんと表札が同じ。同姓2件続きで加害者はその家の隣でした。もう1回やり直しでした。もう笑い話です(^_^;)


  こういう家族に囲まれていることも、私にとっては支えだったのかもしれません。
 もしイジメの告白をしても、妻と娘なら受け入れてくれるだろう!笑わない嫌われないだろうという心の支えもあったのだと思います。

  フェイスブックの他にブログもあります。最近始めました。フェイスブックをやっていない生徒たちから見れないと不満を言われたので、フェイスブックにアップするたびに、同じ記事をブログにもアップしています。暇なときにでも見てください。
「たこ焼き頭:加倉井義忠の言いたい放題」 http://blog.goo.ne.jp/mostgenkifulです。

  カテゴリーで「いじめ」を選択してもらうと、私がこれまでに関わったいじめ問題を閲覧しやすいかと思います。(今後も追加していく予定です。)

  最近、中学校を見に行きましたが、震災後に建て直しをされ、昔の面影はほとんどありませんでした。そのことも嫌なことを思い出さずに済む要因なのかもしれません。
 当時、訴えても助けてくれなかった先生たちも、高齢で他界・・・気持ちの整理に影響しているのかもしれません。



【このHPで役に立ったページ】
  一番参考になったのは、まず、「被害状況を記録をしておく」内容のことです。
これは私も相談に来た子に、アドバイスしてきたことですが、ただ本当にこれでいいのか?という疑問もありました。それがはっきり文章で、「いじめる側が100%わるい」と私と同じ考えていてくれた方(玉聞様)がおられたことが何よりもの喜びでした。

  これまでにも、イジメの相談のたびに、その学校に連絡しても言葉だけではどうにもならず、文章にまとめて提出するようにしてきました。

  ある中学校では、対応してくれた学年主任の先生が「こんなに文章にされては・・・」とつぶやいたので「困るんですか?」と問いかけると、慌てたように「いえ、困っていません」と・・・
でも、その表情から、形あるものが残ったほうが、先生たちも動かざるを得ないと、手応えを感じました。
  それから毎回、文章で提出しています。だから、近隣学校の先生たちのあいだでは、私を嫌っている方もいるようです。

  また、担任だけでは・・・イジメ経験のない先生には、な〜な〜にされたり、上に報告していなかったり、相手にされなかったり・・・保護者が何度も訴えや相談をしても、同様で拉致があかないのでやきもきしたこともあります。

  それで、最近は担任・学年主任・生徒指導・教頭・副校長・校長・・・管理職全員あてに、手紙だったら同じ文章ですが個別に、FAXだったら連名にして、多くの先生たちの目に留まるようにしています。文章化の方が、私の勝手な思い込みかもしれませんが、「学校全体の問題」として受けとめてくれて、解決が早いように思えます。(*゜▽゜*)

 続いて、私の参考になったのは、モノ隠し・悪口・シカトにあった際の対応や考え方ですね。これも知っていたら、私の中学時代もかなり楽だったのに・・・と感じさせられました。
 同じ嫌がらせにあっている子には、これも加味してアドバイスをさせてもらっています。

 玉聞様の「いじめと戦おう!」は私にとって、最高のテキストです。
 またブログ・学校・塾でも良書として紹介しています。



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